2)秋処理のポイント②-前編-

目次

秋処理のポイント②前編
~有機物の施用について~

(1)基礎となる知見
●有機物の施用効果

●有機物の基本特性C/N比

●土壌の団粒構造

●稲ワラの還元効果

●土壌からの養分供給

●水からの養分供給

(2)養分量の不足分をどうやって補うか?その1
~農家現場における立脚点~

コラム4-自然農法とは何か?その3「土は生きている」

(3)養分量の不足分をどうやって補うか? その2
~自然農法創始者岡田茂吉に学ぶ~
●浄化作用

●病害虫の役割

●土は肥料の塊(かたまり)

コラム5
「生きている土」の実体

秋処理のポイント②-前編-
~有機物の施用について~

「有機物は微生物の餌である」と先に述べましたが、有機物は、土壌に様々な効用をもたらし、稲の生育相を改善します。一方で有機物は、その種類や量、質、施用時期など、栽培者の選択肢が多いため、栽培者の‘農における立脚点,の取り方により施用状況は大きく異なってきます。ゆえに‘立脚点,を明確にしておくことは、栽培上きわめて重要になってきます。

※その前に、農学的基礎知識の紹介↓

(1)基礎となる知見

●有機物の施用効果

有機物の施用で期待される効果としては、①土壌団粒の形成促進(物理性の改善:透水性、保水性、通気性)、②各種養分の安定供給、③pH緩衝能を大きくする、④陽イオン交換能(CEC)を大きくする、⑤土壌生物の基質(エサ)になり土壌生物の活性を高める(前述)、などが挙げられます。

いずれにせよ、有機物が土壌の機能を物理的、化学的、生物的に高めることは周知の事実ですが、その代表格が腐植であります。腐植は、土壌有機物と同じ意味に使われることもありますが、ここでいう腐植は、植物体などの有機物が微生物やその他土壌生物の作用を受けながら徐々に分解されていく過程で生じた中間生成物であり、難分解性の黒色の高分子化合物であります。また、腐植の陽イオン交換容量は、モンモリロナイトやバーミキュライトといった粘土鉱物よりはるかに大きいことで知られています。

●有機物の基本特性C/N比

ここで有機物の基本特性をいくつか把握しておく必要があります。一般的に微生物は、菌体合成するのにC/N比(全炭素と全窒素の比率、炭素率ともいう)にしておよそ20前後の炭素(C)と窒素(N)を必要とすると言われています。有機物のC/N比は種類により値が異なり、オガクズのように300を超えるものもあれば魚粕や油粕のように10に満たないものもあります。ちなみに稲体由来のものは、稲ワラで60、モミガラで74、米ぬかで20程度であると言われています。

すなわち微生物がC/N比20以上の有機物をエサに増殖する場合、炭素が多いので不足する窒素を土壌中から取り込んで調整します。すなわちC/N比が高いほど、分解は進まず、土壌中から取り込む窒素量が多くなり、いわゆる「窒素飢餓」を引き起こしやすくなります。

反対に、C/N比が20以下の場合は、窒素が余ってくるので、窒素を速やかに放出(無機化)します。このようにC/N比の低いものは、易分解性有機物と呼ばれ、一般的には、その値が低いほど、分解されやすく、養分供給効果も高いということになります。

要するに、一般にボカシ材料に使われる魚粕や油粕といった易分解性有機物のみでは、菌体の合成はできても、十分な腐植を生成することはおろか、後述する粘質物質(糖類)を分泌して土壌団粒を補完することもできないということになります。

すなわち、ボカシのようなC/N比の低い易分解性有機物の特性は、一時的な①肥料的効果と②土壌微生物の餌、にあるといえ、永続的かつ安定的に土を育む材料にはなり得ないということです。

●土壌の団粒構造

土壌団粒は、透水性、保水性、通気性という一見相反する機能を同時に実現できる構造を有しており、作物の安定生産上、極めて重要であることは、周知の事実です。土壌団粒は粘土と腐植が中心になって形成されており、団粒構造の形成には、土壌中に適度な量の腐植と粘土が含まれていることが望まれます。

土壌団粒は、鉄やアルミニウムなどの陽イオン、糸状菌の菌糸、微生物の粘質性分泌物、腐植などが、粘土を中心に土壌粒子を結合させる糊状の役割を果たすことで形成されていきます。中でも陽イオン交換容量が大きく安定した形状を持った腐植の働きが、団粒形成上、最も大きい効果を持つと言われています。

すなわち、粘土と腐植を中心に、これらの働きが複合的に作用することにより、湛水状態や代かき作業でも破壊されない強固な耐水性団粒が形成されるというわけです。ゆえに、永続的かつ安定的に団粒構造を維持していくためには、微生物を安定的に養い、かつ腐植の材料となり得る、一定以上の炭素率(C/N比)を有した有機物(易分解性でないもの)の施用が土壌の健康管理上きわめて重要になってくると言えます。

●稲ワラの還元効果

このように有機物の一連の特性を見てくると、収穫残さとして、乾物重(ハザ干し脱穀時程度)にして反当およそ700kg前後の稲ワラが還元される意義は極めて大きいと言えます。

今からおよそ40年前の昭和43年、「水田におけるいねわらの施用法と施用基準」と題して、全国の国公立試験研究機関において実施された「稲ワラ施用に関する試験研究」のとりまとめが農林水産技術会議事務局によって行われました。当時の背景として、①コンバインの普及に伴う稲ワラ残さの処理の問題と②農家の労力事情から多大の労力を要する堆きゅう肥生産が困難になり、施用量の減少に伴う地力の低下が憂慮される事態になっている、ということがありました。

その総括とりまとめにあたった当時の農業技術研究所化学部長石沢修一氏は当報告書の中で次のように述べています。

「土壌的には、グライ土壌や泥炭土壌のような湿田土壌あるいは寒冷地や早期栽培のようにいねわらの分解が抑制されるような条件ではその施用には慎重な配慮が必要であり、分解を促進するような施用時期の選定や対策的処理がなされねばならない。しかし、西南暖地のように分解速度の早い場合は、たとえ収穫全量を施用してもその障害はほとんどなく、堆肥と同等の効果がえられることが多い。」

また同報告書の中で当時の農事試験場出井嘉光氏は次のように述べています。

「地力は主として粘土と腐植によって支配されている。とくに現実の農業では、土壌中の腐植をいかにして維持し、あるいは積極的に富化するかが、地力増強の根本であり、そして腐植の働きをどのように活用するかが水稲多収の基本になるものと考えられる。(中略)いねわらの施用は堆きゅう肥をつくらずして、直接土壌にいねわらをすき込むことによって土壌腐植の増大をはかり、ひいては水稲の安定多収と省力をはからんとするものである。(中略)これらの諸問題について昭和37年頃から土壌肥料部門で全国的に試験研究が展開されてきた。その結果、いねわらの施用技術はほぼ確立され、地帯、土壌型、栽培様式などに応じた、すき込み時期、施用量、対策処理を考えれば、堆きゅう肥の施用に優るとも劣らない効果を発揮することが明らかになった。

以上のように、稲ワラの還元については、水田稲作の機械化に伴うコンバインの普及および農家の労力不足による堆きゅう肥の生産減少を契機に、水田の地力を維持または増進させるという目的のために、積極的活用の観点から整理されたものであり、堆肥と同等の効果が得られることが既に明らかにされていました。中には、‘物理性の改良効果は堆肥に優る例がある,ことも記載されています。すなわち、これらのことからも、有機物施用で期待される効果のうち、土壌団粒の形成や緩衝能の増加など土壌改良的な部分については、稲ワラの還元により、十分達成できると考えられます。

●土壌からの養分供給

また、コンバインの普及に伴い、水田には長年にわたり、稲ワラが還元されてきていることになり、年の内、高温期にあたる数カ月間は湛水状態になるため、急激な有機物の分解が見られないことなどを考慮すると、地域や圃場間差はあるにせよ、一定量の腐植の蓄積は進んでいることが想像されます。‘稲は地力で獲る,所以かもしれません。

すき込まれた稲ワラが稲生育の後半になって徐々に分解され養分が放出されてくることは経験的に知られていますが、実は初年度で分解されるのは一部で、多くの部分は分解されずに土中に残されていきます。そして翌年はその残された一部が分解し、また翌々年はさらに残された一部が分解するということを繰り返しながら、永い時間をかけてゆっくり分解されていきます。

こうして毎年有機物(稲ワラ)が還元されていくと、その年の新鮮有機物から分解されてくる養分に加え、前年分の未分解有機物からの養分、さらに前々年分の未分解有機物からの養分というふうに、年々蓄積された有機物からの養分が足されていく形で土壌から供給される養分は増えていきます。そうして長年連用し続けると、ある時から、見かけ上は、施用した有機物が全量分解してくるような養分供給量を示すようになります。すなわち現在の一般的な水田では、蓄積された稲ワラ由来の有機物からの一定量の養分供給が期待できると思われます。

西尾道徳氏は著書の中で「現在の日本の平年作の平均値に近い10アール当たり500キロの玄米収量を上げた」場合として以下のように述べています。

「わらなどの収穫残渣を還元して20年目の水田なら、わらと根から4.3キロの窒素が供給され、雨、灌漑水や窒素固定で5キロ、合わせて9.3キロが供給される。しかし、供給量と吸収量とは同じでない。(中略)9.3キロ中の半分の4.7キロ程度が実際に水稲に吸収されると考えるのが妥当だろう。したがって、収穫残渣の還元だけでは、10.7キロの必要吸収量に対して、6キロの窒素吸収量が不足することになる。(中略)窒素の水稲による利用率を50%にすると(中略)500キロの収穫を得るには12キロの窒素をどうやって補給するかの問題が生じる」(西尾道徳「有機栽培の基礎知識」農文協1997より)。

●水からの養分供給

前述したように、水由来(雨、かんがい水)の養分供給は見逃せないところがあります。まずは、表2を見て下さい。

表2 かんがい水の水質とかんがい水による養分の供給量(全国平均)

  珪酸 石灰 苦土 加里 ソーダ 窒素 リン
(SiO2) (CaO) (mgO) (K2O) (Na2O) (Fe2O3) (T-N) (T-P)
成分濃度(mg/) 18.2 15.2 3.3 1.7 11.7 0.6 0.5 0.03
養分供給量(kg/10a) 26.2 21.9 4.8 2.4 16.8 0.9 0.7 0.04
(注)養分供給量は10a当たり1,440tの水量として計算した。「土づくりガイドブック第2版」p36(編集・発行:長野県・JA長野中央会・全農長野県本部・財団法人長野県農林研究財団)より

この表からはかんがい水からは相当量の養分が注ぎ込まれていることが分かります。興味深いのは、ケイ酸植物である稲にとっては必須元素とも言えるケイ酸(吸収量は窒素のおよそ10倍)の供給量が最も高く、特に重要視される苦土などは十分量が供給されている点です。さらに石灰、カリなども一定量が供給されています。(※ちなみに土壌中のケイ酸含量はおよそ70%を占めているそうです。(参考文献:日本土壌肥料学会編「ケイ酸と作物生産」博友社2002))

また雨の中には空気中の塵を含め一定量の養分が含まれており、さらに稲妻は稲のつま(配偶者の意味)、雷は田に雨と書くように、放電現象により空気中に含まれる窒素が雨と共に降り落ちてくることは良く知られています。すなわち地域差は当然見られると思われますが、水田には、雨やかんがい水から、相当量の養分が一定のバランスを持って供給されていることになります。

※湛水に伴う水田特有の機能として、①リン酸の有効化<還元状態になることで、リン酸の溶解度が高まる>、②連作を可能にする<連作障害の誘因になる病原菌の不活性化や生長阻害物質の流出など>、などがあります。弥生時代より何千年も延々と受け継がれてきた所以はこうした水に由来する特有の作用にあると考えられます。

(2)養分量の不足分をどうやって補うか? その1

~農家現場における立脚点~

前述したように、西尾道徳氏の著書によれば、理論上では圃場外からの養分補給がない場合、12kgの窒素が不足することになります。

「標準的な栽培では、化学肥料で窒素を10アール当たり8キロ施用し、さらに堆肥を1~2トン施用している。堆肥が未熟堆肥で水分含量75%のものなら、毎年施用し続けると、10年目に4.9キロの窒素を放出する。窒素の水稲による利用率を50%にすると、この合計12.9キロの窒素補給で吸収量の不足分6キロが満たされることになる」(前掲書「有機栽培の基礎知識」より)

これは一般的な慣行農法における窒素収支の観点から見たものであり、さらに、リン酸やカリ、石灰(カルシウム)、苦土(マグネシウム)、硫黄、その他微量要素(ミネラル)についても同様に過不足が生じている可能性があります。

例えば、実情に基づいた的確な土壌診断を行い、それに基づいた施肥設計を組み立てていくことによって、見事な作物の生育につながっている事例も数多くあると聞きます。

しかし、多様な自然農法や無農薬有機栽培の現場では、上記(理論)に基づかないことも多く、これらの問題の対処の仕方(養分の捉え方、養分供給のあり方)は、栽培者の農における立脚点の取り方や考え方により大きく異なっています。どの方法が正しくて、どの方法が間違っているのか、極めて長いスパンで見るならともかく、短いスパンで見る限り、正確に判断することは難しい側面があると言わざるを得ないのが現状です。少なくとも農家現場において一定期間にわたり一定の結果が伴っている場合は、事の是非は問えないところがあります。

実際、数多い自然農法の農家現場の中には、その噂を聞きつけ調査に訪れた農業研究者や指導者が「何故作物がこんなに健康に育っているのか全く理由が分からない」と皆一様に首を傾げられる事例があります。例えば、畑にC/N比の高い籾ガラを大量にすき込み、何ら特別な措置を施していないにも関わらず、窒素飢餓を引き起こすどころか青々と良好に生育する作物の姿がそこの現場にはありました。

また収穫残さの稲ワラさえ田んぼの外に持ち出し、その他の有機物さえ全く何も入れずに、何十年間も一定収量を上げられている事例がいくつかあることを、実際にその現場を確認した人達から伺ったことがあります。すなわち、現代の農学ではまだまだ解明されていない未知の領域が多く残されていることを、そうした現場の事例は如実に物語っているのではないかと思います。

作物を育てる土壌養分を如何に捉えるのか?それは‘農の立脚点をどこに置くか,言い換えるなら、農に対する哲学の違いに大きく左右されるのではないでしょうか。しかし、ここで話が終わってしまっては、問題提起における解決は滞ったままになります。

コラム4

自然農法とは何か?
その3「土は生きている」
土は自ずと育っていく力を持っています。それは土の様子を観察すれば明らかに感じることができます。土の匂い、土の手触り、土を歩いた時の感触、土に住む生き物の種類や数、土はどんどん変化していきます。土に育つ作物にも、草姿や葉の硬さ、根の張り、そして食味などに変化が見られるようになります。子供が育っていくのと同じように、土は日々変化成長していくのです。土はまさに生き物です。春夏秋冬を通じた土の動きは、まるで手足をいっぱいに広げて走り回る一匹の生き物のように、一体感があってダイナミックです。土は、遥かな時間の中で一定のリズムを刻みながら、生き物としての全体的な調和(バランス)を懸命に保とうとします。栽培者の働きかけ(栽培管理)に呼応するかのような作物の姿やバラエティに富んだ雑草発生の様子などは、生きた土の姿を如実に表していると言えます。
「栽培者として土や作物にいかに関わればいいのか?」栽培のヒントは‘土を生命感に溢れた生き物として捉える,ところにあります。~栽培を構築していく時、栽培者の立脚点のとり方によって栽培のあり方は大きく異なってきます。
土を生き物として、などと書いていますが、自然は驚くほど多重構造です。実際、自然を把握することはかなり難しいことだと思っています。

(3)養分量の不足分をどうやって補うか? その2 

~自然農法創始者岡田茂吉に学ぶ~

浄化作用

ちょっと話が横道にそれますが、私が自然農法の創始者である岡田茂吉(1882~1955)の名を初めて知ったのは、自然農法の研修に入ってまだ間もない頃でした。宗教法人・世界救世教の教祖でもあるという事に最初は少し驚きましたが、①自然農法の原理原則が他に類を見ないほど素晴らしいものであったこと、②岡田茂吉の残した言葉(御教え(みおしえ)と呼ばれる)が感嘆に値するものであったこと、から私は自然農法に全幅の信頼を寄せました。

本書でも度々引用していますが、トロトロ層に早くから着目し、その経緯などを記した、自然農法のパイオニア的名著「自然農法のイネつくり」(前掲/片野学著)は、岡田茂吉が昭和10年に提唱した「自然農法」についての論述であり、岡田茂吉の教えを如何にひも解くかに焦点を当てています。

私は、信者の方から一方的に‘教え,を説かれたことは一切ありませんでしたが、私からの問いかけに対しては親切丁寧に答えてくれました。中でも感嘆したひとつが、病気は‘浄化作用,であるという考え方です。

岡田茂吉は

「病気とは人体の浄化作用であり、人体に毒素がある程度溜まるや、これが健康に支障を及ぼすため毒素排泄作用が発生する。つまり清浄作用である」

という言葉を残しています。

例えば、風邪は、熱を出し、鼻水を出し、咳を出し、体内に溜まった毒素を溶かして排出するという、重要な役割を担っているということです。すなわち適度に風邪をひくということは、体内の毒素を排出し体を浄化してくれますから、毒素を溜め込んで大きな病気になることを未然に防いでくれています。ですから生命活動に大きな支障のない範囲なら、薬の力で無理に治すようなことはせずに、熱は下げずにとことん出した方が、鼻水も止めずに出した方が、体の健康上は良いと考えられます。

実はこういった考え方は、自然農法に深く通じています。無農薬たる所以です。農業も医療も原理原則は全く同じなのです。最近では一部の医療関係者などが興味深い見解を示されていることがあります。

「子どもが発赤、発疹、発熱を起こすと、お母さんはうろたえてしまって、何としても、その症状を抑えなければと思ってしまう。例えば、まだ一歳にもならない子どもが、水道水の塩素に触れて全身性の発赤、発熱を起こすことがある。そのとき、抗ヒスタミン剤やステロイドなどを塗ったり飲んだりすると、その症状が瞬時に治まる。それは、見た目には治っていると感じられるかもしれない。しかしそれは実は、塩素を外に出そうという反応を抑えてしまったということでもあるのだ。

原因はとり除かれていないから、薬が切れれば、体は毒を外に出そうとして、また熱が出たり、真っ赤に腫れたりするのである。そして、それを抑えようとして、また薬を使ってしまう。病状と薬のいたちごっこで、治らない情況にどんどん嵌っていくのだ。(中略)大切なのは、赤く腫れ上がったのは、何か変なものが体に入ったせいだと知ることなのである。それを体は外に出そうとしているのだと。」(新潟大学大学院教授・安保徹「こうすれば病気は治る」新潮選書2003より)

病害虫の役割

農作物にとっても、病害虫は、‘浄化作用,と捉えられます。病害虫は作物の体内に溜まった毒素に敏感に反応しているのです。よく観察すればそれは一目瞭然だと思います。そう考えるほうが、現象を観察する時、無理なく自然に捉えることができます。岡田茂吉の次のような言葉があります。

「万有の法則は汚濁の溜る処、必ず自然浄化作用が発生する」

例えば、イモチ病が発生しやすい稲は、一目見れば分かりますが、葉色スケール上では同じ6でも、イモチ体質の稲は、顔色(葉色)が悪く冴えないです。それは、窒素過多でかつ過繁茂や密植により受光体勢(光合成環境)が悪い場合に多く見受けられます。窒素をたっぷり吸って、かつ光合成産物の炭水化物が少ないため、体内で消化しきれずに、未消化窒素(体内毒素)として抱え込んでしまっているのです。

毒素を溜め込んだ葉は、冴えない、美しくないと感じられる色で表現するのですから、‘自然,というのは実に巧妙です。そんな稲は、夏の低温、曇天続きによる日照不足、雨といった悪天候で、あっという間にイモチが田んぼ全体に広がっていきます。

反対に、健康な稲の葉は、同じ濃い目の葉色であっても美しく鮮やかな緑色で、かつ指が切れそうなくらい硬いものです。天候不順であってもイモチにかかる気配は一切感じられません。畑作物におけるアブラムシなども、同様な原理に基づいています。

このように病害虫は毒素を‘浄化する役目,を担っています。そうした働きは一方で作物の何かしら良くない緊急状態を伝える‘メッセンジャー(伝達者),という顔も持っていることに気づかされます。

上記の稲のイモチ病ですが、同品種での比較の場合は、上で述べたような傾向が顕著に見られますが、違う品種を比較する場合は、品種ごとの特性があるため、それを考慮する必要があります。
話は変わりますが・・・イモチ病に弱い稲の品種は育てるのは難しいですが、食味が良い傾向にあるかもしれません。“コシヒカリ”はイモチ病に弱く繊細で敏感な品種ですが良食味です。当農園が栽培する“にこまる”もコシヒカリと同じで敏感で良食味です。農家はイモチに弱い品種を避ける傾向にありますが、敏感で繊細な品種ほど自然農法向きであり、かつ美味しいと言えるでしょう。農学的には色々と理屈があると思われるのですが、栽培者の感覚としては、土の状態に合わせて、如実に、かつ敏感に反応する品種、と言った感じでしょうか。

土は肥料の塊(かたまり)

随分話があっちこっちに飛んでしまいましたが、後もう少しで本題に戻りましょう。私は信者ではありませんが、「御教え」の内容について話を聞くたびいつも驚かされると同時に共感できました。岡田茂吉が残した‘知見,を一宗教の一教示という枠組みの中で捉えてしまうと、極めて大切な真理を見失う可能性があり、そうした枠組みを取り払い、改めて残された様々な知見に対して様々な角度からの客観的な検証が必要ではないかと思います。

一昔前、農業が、農薬と化学肥料を謳歌していた全盛期に、物質的観点、技術的観点だけに留まらない自然の摂理に基づいた深い精神性を兼ね備えた自然農法を提唱されていたことは、その時代の背景に思いを馳せれば、なおその先見の明に驚かざるを得ません。

片野学教授は先の著書の中で、「イネの栄養もヒトの栄養も極めて類似したものではないか」という観点から、岡田茂吉の‘ヒトの栄養学,に関する一文を引用しています。私もこれまで何度か見聞きした大変興味深い見解です。重複しますが、手持ちの別書(世界救世教編「天国の礎」1993)から以下に引用抜粋したいと思います。栽培を構築していく上で何らかの重要なヒントを与えてくれるかもしれません。

「今日の栄養学において根本的誤謬(ごびゅう)である点は二つの面の一面のみの研究を主としていることである。すなわち食物のみの研究を主とし、食物を受け入れ、それを処理すべき人体機能の研究を等閑(とうかん)に附している。元来人体内のあらゆる機能の活動は今日の学理をもってしてもとうてい解きえないほどの化学者であって、あらゆる食物から必要栄養素を自由自在に生産し、変化せしむるのである。見よ米飯やパンや菜葉、芋豆等を食うことによって、消化機能という魔法使いは血液となし筋肉となし骨となすのである。しかるに米飯や、パンや、菜葉をいかに分析するといえども血素の微粒、筋肉の一ミリに当たる原素だも発見しえられないではないか。またいかなる食物を分析しても糞尿のごとき汚穢や臭気の原素もなければアンモニアもないのである。

右の理によって、今日のごとく栄養と称し、血液やビタミンなどのごときを摂取するとしたら、それはいかなる結果になるであろうかというと、実は人体の衰弱を増すことになるのである。これを読む読者は不可思議に意(おも)うであろうが、深く稽(かんが)えれば直ぐ判ることである。何となればビタミンのない物からビタミンを生産する消化機能であるとすればビタミンを食えば消化機能の活動の余地がないから消化機能は衰退する。消化機能のごとき重要機能の活動が衰えるとすれば、連帯責任である他の機能の活動も衰えるのは当然であるから、今日の学理通り実行するとすればそれは逆的効果を招来するというわけである。

判りやすくするため一つの例を挙げてみよう。ここにある品物の製造工場がありとする。その工場は原料である鉄や石炭を運び込み、それを工員の労作や石炭を燃したり機械を運転したり種々の過程を経ることによって初めて完全なる品物を作り出すのである。すなわちその過程が工場の生活力である。これがもし初めから完成した品物を工場に運び込んだとすると工場は工員の労作も石炭も機械の運転も必要がなく煙突から煙も出ないというわけで工場の生活はありえないから工員も解雇し、機械も錆びついてしまうことになる。故に人体もまた完成した食物を摂るとすれば、栄養生産工場は活動の余地がなくなるから弱るわけである。この理によって人間の生活力とは未完成食物を完成すべき活動によって発生することを知らねばならない。勿論ビタミン等すべて栄養素なるものは完成食物である。」(「栄養学」昭和22年2月5日)

片野教授はこれを受けて

「土自体の栄養をヒトの場合にたとえると、化学肥料や完熟堆肥などは完成された食物にたとえられよう。土のやわらかさの測定で述べたように、化学肥料のみならず堆肥ですらイナワラに比べれば土を固くする性質をもつようである」

と自著の中で述べています。

これは、先の昭和43年の全国の国公立試験研究機関が取りまとめた

「稲ワラによる堆肥に優るとも劣らない施用効果」

に通じています。田んぼにいかに関わればよいのか?この「栄養学」は、多くのことを示唆しているように思います。

岡田茂吉は、他にも数々の言葉を残していますが、本項に関するものを抜粋して以下に紹介したいと思います。

「土とは造物主が人畜を養う為に作物を生産すべく造られたものである以上、土そのものの本質は、肥料分があり余る程で、言わば肥料の塊(かたまり)といってもいい位のものである。

「自然農法の原理は飽迄(あくまで)土を尊び、土を愛し、汚さないようにする事である。そうすれば土は満足し、喜んで活動するのは当然である。」

「堆肥の効果は土を固めない為と、土を温める為と、今一つは作物の根際に、土乾きがする場合、堆肥を相当敷いておくと、湿り気が保つから乾きを防ぎ得るという、以上三つが堆肥の効果である。」

「自然農法の根本は、土そのものを生かす事である。」

「施肥すればするほど土を殺してしまう」

「今日までの農法は肝腎な土を軽視し、補助的である肥料を重視した。」

「肥料を吸収する野菜は、天与の味わいは逃げてしまう。」

「土自体の栄養を吸収させるようにすれば、野菜それ自体の自然の味わいを発揮するから実に美味である。」

「日本全国の土壌は麻薬中毒、否肥料中毒の重患に罹っているといってもいい。」

「土を愛し、土を尊重してこそ、その性能は驚くほど強化される。」

「肥料を用いる結果として土壌本来の生育は失われ土は死ぬ。」

「自然農法の原理とは、土の偉力を発揮させる事である。」

(以上、自然農法センター発行、「自然農法」誌より)

(主な参考文献:天野紀宜「自然から学ぶ 生き方暮らし方」農分協2007)

コラム5

「生きている土」の実体
片野教授は、雑草対策の根本は雑草発生の要因を取り除く、「柔・温・潤」の生きている土づくりにあると自著の中で述べています。その中で、雑草誕生の歴史を振り返りながら、生きている土づくりに貢献する雑草の「役割」と土のでき具合とともに種類が変化する「遷移」について言及しています。そして、自然農法の雑草対策に難儀し「雑草はなぜ生えてくるのか」という議論の中で見出された最も重大なヒントは、自然農法創始者岡田茂吉師の堆肥の役割を論じた一言にあったと述べています。
「見よ地上には枯草も落葉も豊富に出来、年々秋になればそれが地上を埋め尽くすではないか。これこそ全く土を豊穣にする為のものであって、それを肥料にせよと教えている。そうして耕作者は堆肥に肥料分があるように思うが、決してそうではない。本来の堆肥の効果は、土を乾かさない為と、温める為と、固めない為である。つまり水分を吸収し、熱を吸収し、土が固まらないようにするにある。」(「農業の大革命」昭和二十八年五月五日)
この一文に‘生きている土,の実体を見出された片野教授は次のように述べられています。
「(前略)この『生きている土』の実体とは何か。右の一言は、その核心を突いているように思う。すなわち、生きている土の実体は生きている人間と同じである。人間も死ねば乾いて、冷たく、固くなってしまう。生きている土とは、『柔かく、温かく、適度な湿り気をもつ(これに、柔・温・潤という漢字をあててみた)』土であり、死んだ土には『固・冷・乾』という字をあてた。
雑草の発生する意味は、死んだ土を生きている土に戻すためにあるのではないかということに気づいていく。したがって、もし、農耕地生態系とはいえ、「柔・温・潤」の土を人間の手でつくることができるならば、雑草は生えてくる役割がないから、発生してこないのではないかという仮説が生まれてきた。(後略)」(前掲書「自然農法のイネつくり」より)

後編につづく