(3分小説)会社辞めるわ

舞台は“荒野” ある男と出会う・・・
「本当にこの道を行くのか」
「ああ」僕は答えた。
「君が思っているほど、先に進むということは楽じゃない」
「そうか」
「君は何も分かっちゃいない」
「確かに僕には知らないことが多すぎる。でも僕はもうこれ以上ここに留まっていることはできない。自分がいくら望んだとしても・・・。それはあなたもよく分かっているはずだ」
「・・・」
「風が吹いてきた。僕はそろそろ行かなくてはならない」
「おまえはどこに行こうとしているのだ」
「僕には分からない。この道がどこに向かっているのか」
「恐くないのか」
「僕はいつだっておびえているさ」
「風が強くなってきたな」
「ああ、出発の時だ」
「いつだって君の健闘を祈っているよ」
「ありがとう」僕は手を振った。

妻は、子供たちを寝かしつけ夕食の後片づけを終えたばかりだった。ダイニングテーブルで新聞を読みながら、ほっとしているように見えた。「君もコーヒー飲む?」私はキッチンカウンター越しに妻に声をかけた。妻から、私も飲むと返事が返ってくる確率は百回聞いてせいぜい三回くらいのものだが、ときどきいっしょに飲むかと聞く。食後のコーヒーは自分でたてる。結婚以来十数年続いている日課だ。

「いらない」妻はいつものように返事をした。

私は出来たてのコーヒーを入れたカップを持って妻の向かい側に座った。

コーヒーから立ち上る微かな湯気が私を少し落ち着かせた。

「会社辞めるわ」私は妻に言った。

「あら、そう」妻は、素っ気なく答えると、椅子から立ち上がり台所に向かった。私がこの手の話を持ち出したのは一度や二度ではない。

「いや、本当や」私は台所にいる妻に向かって少し声を大きくして言った。これまでも事あるごとに「辞める」と妻に言ってきた。しかし、当時の私にとって「退職」は、ある種の憧れではあったものの、決して本心ではなかった。だから、妻にしてはいつもの「旦那のボヤキ」に聞こえたのだろう。妻は台所からしばらく戻ってこなかった。台所で何やら探し物をしているようだった。私はもう一度声を大きくしていった。今回は本当に辞めるつもりだった。

妻は、いつになく真剣な私の様子に気づいたのか、少し慌てた様子で戻ってくると、本当、と少し緊張した声で言った。

「本当に?」妻は問い詰めるように、何度となく繰り返した。

「うん」と私はうなずいた。

やがて、どうやら私の決心が分かると、潮が引いていくように妻は平静を取り戻した。特に異議申し立てはないようだった。

開けっ放しにした窓から、カーテンをくぐり抜け、夜風が舞い込んできた。山の香りがした。心地良い風だ。8月も終りに近づき、夜になると幾分涼しくなった。風が秋の気配を運んでくると、安堵感に加え、切なさやはかなさのようなものを感じる。私は椅子から立ち上がると、窓際まで歩き、カーテンを開け、風を大きく吸い込んだ。やはりどこか懐かしい山の香りがした。夜は、沈黙した帳を、深くおろしていた。私は、少し高揚していたのかもしれない。心臓の鼓動が、いつもよりは幾分胸を突き上げるのを感じた。私は、窓から身を乗り出し、月を探した。どこにも見当たらなかった。月は雲に隠されているのか、それともどこか別の方角にあるのか、空の闇はどこまでも深く続いていて、見分けがつかなかった。私は鼻から大きく息を吸い込み、空に向かって大きくため息をついた。部屋の方に振り返ると、ダイニングテーブルの上に輝く白熱灯の明かりが、やけに眩しかった。