私は京都丹波の里山の田んぼで、自然農法米や自然栽培米を育てている専業農家(百姓)である。

当記事は、前記事「私はこうして百姓になった~前編~および~後編~」の続編である(ちなみに前編は2007年からの物語、後編は1996年からの物語であり、時系列は逆になっている)。前記事では2008年の暮れも押し迫る頃に“土地(田んぼ)が見つかった”ところで物語を終えた。
「さぁこれで一安心」ではなかった、本当の苦難はこれから始まるのだった。
これは、田んぼが見つかった“その後の物語”である。
私は俗に言う“Iターン新規就農者”であり、見つかった“田んぼ”の他には何もない。作業小屋はもちろん、小屋を建てる土地も、道具も、農機具もなーんもないのである。当たり前のことではあるが本当に何もないのである。
だから田んぼが見つかりホッとしたのも束の間、「さぁこれで一安心」というわけには全くいかなかった。
小屋探し
“田んぼ”の次は拠点となる“小屋”を見つけなければならなかった。
土地を買って新しく小屋を建てる余裕など全くない。賃貸または安価な中古物件を探すしかない。稲作は機械を数多く必要とする。とりわけ収穫後のお米(籾)を乾燥・調整する機械(乾燥機や籾すり機など)を収納できる大きな小屋が必要となる。
それも出来るだけ田んぼの近くで確保しなければならない。
“小屋の確保”は大きな課題だった。
“そんな大きな小屋がそんな上手い具合に見つかるもんか!”
そう、その通り、条件を満たした適切な“空き小屋”が(そう、空いていなければならない)、それも田んぼの近くにあるはずがない。
私は不動産屋をいくつも回った。しかし紹介して頂いた物件は僅か一件だった。しかも希望していた条件を全く満たしていなかった。作業小屋には不向きで、かつ高く、遠く、いつまで借りられるか分からないような物件だった。
果たして見つかるのだろうか? “広大な砂浜に落とした一粒の真珠を探す”そんな気分である。
しかし私は焦らなかった。乗りかかった船は私の意思に関係なく進んでいるような気がしていた。何となく何とかなりそうな気がしていた。
そう、 “何とかなるさ!”
昔、実家の近くに野球場くらいの広さがあるとても大きな空き地(野原)があった。大きな木がいくつもあって草が生えていて子供にとっては絶好の遊び場だった。私が中学生の時、その空き地に友達に連れて行かれてこう言われた。「ここのどこかで自転車のカギを落とした。いっしょに探して欲しい。」絶対無理や!!私は呆れて草木が生えた広大な土地に座り込んだ。そしておもむろに目の前の砂利に手を伸ばし右から左へと動かした。何とその砂利の中から友達が落とした自転車のカギが出てきた。おお!これは私の奇跡のエピソードのひとつである。
地元の農業委員さん達も物件(小屋)を探してくれていた。
ある日、そんな流れの中で、農家組合長が、貸してもらえるかどうかは分からないがとりあえず地区内の候補になり得そうな物件(空き小屋)を二つ見つけてくれた。
そのひとつは一目見ただけで私の気に入った。一目惚れだった。ここが良かった。ちなみに薦められたのはもうひとつの方だったが気乗りがしなかった(そこは今から思えばサイズが小さすぎた。そこでは仕事を成り立たせることは出来なかっただろう)。
農家組合長に私の意向を伝え、早速家主さんに引き合わせて頂いたが、私はほとんど話すことなく、組合長の肝煎りで小屋を貸して頂けることになった。
家主さんは元酪農家(乳牛を飼育し生乳を生産する)だったが、廃業されたばかりだった。当小屋は乳牛の牛舎に敷く稲わらを保管するために使われていたものだった(壁の柱の隙間には稲わらの切れ端が挟まっていた)。農家組合長の目の付け所は良かった。
私は“何とかなる”という予感に導かれるように、小屋に辿り着き、その小屋に一目惚れした。客観的には“見つけるのは難しい”と判断せざるを得ない“小屋”を見つけることが出来た。不動産屋を回っていた時は果たしてどうなるかと思われたが、結果的には驚くほどスムーズだった。
“有り難うございます”
しかし・・・予期せぬ“大きな問題”が待ち受けていた。
電気を引くことは出来ない(不可能)
家主さんは言った。「貸してあげることは出来るけど、この小屋に電気を引くことは不可能やと思うよ。」「・・・???」
詳細は省くが、地域の事情により、当小屋に電気を引くための電信柱(及び引込柱)は新たに立てることが出来ないことが判明した。
つまり、 “電信柱は立てられない=電気を引くことは出来ない”ということだ。
最短の既存の電信柱までは100m程ある。どうやっても無理ではないか!?
何ともしようがないが、何とかなるさ。先述したように乗りかかった船は何かに向けて確かに動いている感覚があった。そして何より私は“この小屋”が気に入ったのだ。
私は電話帳のページを開き、良さげな電気屋さんに電話をかけ、小屋に来てもらい諸事情を説明した。何とかしてもらおう、と思った。電気屋さんは“何とかしよう”とあちこち歩いて上を見たり下を見たりして色々と査察しておられるようだったが、しばらくして戻ってこられると「私には無理です」と言われた。「A電気というところがあるので、一度そこに相談してみなさい」と言われて帰っていかれた。
親分登場
私はまた電話帳を広げ、教えて頂いたA電気さんに電話をかけた。
受話器の向こう側から、とても落ち着いた、現場で場数を踏んできたであろうと思わせる、ある種の凄みを感じさせる重低音が響いてきた。
早速、白のセダンに乗ってやってこられたA電気のBさんは声にふさわしい体格と風貌の持ち主だった。ちょっと“こわもて”、そして何とかしてくれそうな“おっちゃん”だった。
頼むぜ、親分!!
それにしてもー、電柱が無理なら、穴を掘ってケーブルを埋めるしかないなー、原田はん、えらく高くつきまっせー。
・・・そんな余裕は全くないよ。
うーん、一体どうなったろう?どんな話をしたろう?何日たったろう?
気づけば“親分”は何やら当小屋の向かい側で何やら大がかりな掘削工事(ちなみにうちとは関係のない工事)を始め出したそこの監督であろう厳ついデカい兄ちゃんと何やら親しそうに立ち話をしている。
戻ってきた親分は言った「原田はんとこの電気ケーブルなーあいつに頼んでいっしょに埋めてもらうことにしたわー」「あいつわしの知り合いや、やりてやで」「普通やったらいっしょに埋めてもらうなんて絶対出来ひんで」
はあ・・・???
その掘削工事は、小屋にどうやって電気を引くか模索している頃にタイミングを合わせるようにして始まった。聞くところによると、それは公共工事で小屋の下手にある○△の機器を動かすために(新たに電信柱を立てられないので)電気ケーブルを埋設するための工事であった。
そして、その工事の深溝、機器のある下手まで伸びる一方で、何と、当小屋から一番近い電信柱(引込柱)から小屋の真ん前の道路まで100m近く掘られたのである。
その溝に、当小屋の電気ケーブルを放り込んで貰える。
・・・果たしてそんなことがあるのか?
偶然性、関係性、タイミング・・・・・乗りかかった船は目的地に向かって動いているという確信に近い感覚・・・・・必然性さえ感じるのだから不思議なものだ。
それにしても“あり得ないこと”が起こった、虚空に踏み出したその足下に橋の一部が出来上がったのだ。
感謝、感謝、感謝である。関係者の皆さん本当に有り難うございました。
うまくいったかのように見えたこの事業・・・
しかし・・・話はここで終わらなかった・・・またしても、そうは問屋が卸さなかった。
そう、またしても“大きな問題”が持ち上がったのだ。
私はこの問題を解決するために今まで経験したことがないような種類のエネルギーを人生を賭けて使わなければならなかった。
電圧降下問題発生、電力が足りない
話は変わるが、 “親分”には「ここがいい」と地元の農機具屋さんを紹介して頂いた。
その農機具屋さんに教えてもらった工具専門店で最初に購入した“エアコンプレッサー”は一般的な日本製品の規格を上回る電力(上限ぎりぎりのレベル)を消費するものだった。
このエアコンプレッサーが前述した“大きな問題”の提起および解決の立役者となった。
このエアコンプレッサーを小屋で使用するとブレーカーが落ちた。何回やっても同じでエアコンプレッサーを使うことは出来なかった。他の電気製品は使うことが出来た。
結論から言うと、電信柱(引込柱)から小屋まで埋設した電気ケーブル(100m近い)が長過ぎたために、またその長さを補う(電気抵抗を減らす)だけの太さがなかったために<電圧が大きく降下>したのだ。つまり<電力(p)=電圧×電流>であり必要な電力を確保するために電流が過剰に流れブレーカーが落ちたのだ。
私は電気についてはほとんど知識がなかったので、 “電力が不足しているのではないか”ということは何となく分かっても、当初は何が原因でこうなるのか全く分からなかった。他の電気製品は問題なく使える。このエアコンプレッサーだけが使えない。
もちろんすぐに“親分”が所属しているA電気に行って事情を説明し、専門の電気職人に足を運んでもらって見てもらった。
うーん、このエアコンプレッサーが・・・・・
このエアコンプレッサーが原因ですか?????
うーん、このエアコンプレッサー、規格外やな・・・・・
どうも歯切れが悪い。
どうにもならなかった。そうだ、 “不可能”と言われた電気は来ている。 “親分のおかげだ”。他の電気製品は問題なく使える。規格外のエアコンプレッサーだけが使えない。随分待ったが、結局彼らに動いてもらうことは出来なかった。100m近い電気ケーブルはもう埋設済みだ。今更どうしようもないじゃないか?そりゃそうかもしれない。
しかし私はここで引き下がるわけにはいかなかった。どう考えたって、これから先、様々な機械を作動させるのに十分な電力が確保できているとは思えない(この時点ではまだお米の乾燥調整機械は導入していなかった)。このままいったら船はいつか座礁してしまう。家族の命がかかっていた。
既に、エアコンプレッサーを購入してから(問題が発覚してから)、年をまたぎ数ヶ月が経過していた。
私はとうとう頭にきた、いや身体(腹)の底から突き動かされたのだ。A電気に乗り込み、訴えた。
その頃NHK大河ドラマ「龍馬伝」が放映されていたが、彼らの生き死にの世界は私の世界そのものだった。私は時代は違えど同じ激動の時を死ぬか生きるかの心境で戦っていた。
私は先に述べた原因を自分で調べ上げた。そして小屋で起こっている現象を十分に理解し納得した。
その上で私はA電気の“大社長”に手紙を書いた。反応は驚くほど早かった、鶴の一声で現場は動いた、動いてくれた、ようやく動いてもらった。私の希望を汲み取り、誠実に対応して頂いた。
先にエアコンプレッサーは立役者だと述べた。この規格外のエアコンプレッサーがなかったら電気ケーブルに由来する電力不足に気づくことはできなかった。なぜなら就農1年目(※)は機械を揃えることが出来なかったので、大きな電力は必要なかったからだ。(※初収穫米は乾燥調整を外部委託し全量を農協に出荷した。もちろんすべて自然農法の無農薬米である。)
私は就農2年目に乾燥調整機器一式を導入したが、もしエアコンプレッサーがなかったと仮定すれば、当の電力不足に気づくのはおそらくこの就農2年目の秋の収穫時だっただろう、もしくは機器を増設した3年目以降になったかもしれない。その頃では、あらゆる意味において、そう、あらゆる意味において、 “時すでに遅し”、だったかもしれない。私はエアコンプレッサーに助けられたのだ。
いずれにせよ、誠意は返って来たのだ、感謝しなければならない。
解決!電圧降下問題
では、当の電圧降下問題にどのように対応されたか。
何と「太いケーブルに入れ替える」と言われる。どうやって?
掘り返して、また埋設するのか?
当日、夜遅くまで数人がかりで埋設された電気ケーブルを引き抜き、同じ要領で新しく用意された太い電気ケーブルを挿入される作業に取り組まれた。<こんな方法があるのか?>しかし100m近くある太い電気ケーブルの入れ替えは大変な作業だった。有り難うございました。
さあ、これでようやく機器を動かすに足る電気を引くことが出来た。
そうだ、電気が引けたぞ!
家主に「電気を引くことは不可能」と言われたあの日から1年以上が経過していた。前述したように、私は就農1年目は機械を揃えることが出来なかったので大きな電力は必要なかった。電力を必要としたのは2年目の秋の収穫時からである。それに間に合わせることが出来たのだ。
水編
<作業小屋>に必要なのは“電気”と“水”だ。
ここでは“水”を引くまでの経緯について述べたい。
親分曰わく「水道の新規加入料は馬鹿高い。井戸を掘ろう!」
そしてA電気の職人さん数人がかりで井戸掘りに当たられた。
ほんまに電気屋さん?何でもこなさはんなー。
掘り進めると水がチョロチョロと出てきた。私は昔ながらの手押しポンプで時間があればせっせとチョロチョロと溜まる水を汲み上げた。そうすればじきに多量の水が出るようになると親分に言われたからだ。
私にとっては、何かしら“わくわくする”楽しい時間だった。
しかし、掘っても掘っても汲み上げても汲み上げてもチョロチョロと水が出るだけで一向にまとまった量の水が出てこない。
私のために多くの時間と労力を費やして頂いた。
しかし・・・ある日とうとう親分は諦めた。
この井戸掘り費用は一切請求されなかった。
結局、水道を引くことになった。
本来なら道路下奥深くに眠る水道の本管は、 前述の公共工事の関連で溝が掘られ、底の方で露わになっていた。水道本管が底に横たわるその溝は小屋の目の前の道路まで掘られていた。だから当小屋に水道を引き込むための給水管を本管に繋げるだけでよかった。後は電気ケーブルと同じ溝に埋めてもらい工事は難なく完了した。
じきに道路は埋め戻され、未舗装だった道路は全面コンクリートで舗装された。聞くところによると、この舗装後に水道工事を依頼した場合は、地域の事情もあるのか、驚くほど高額になるらしい。
思えば、小屋も、電気も、水道も、ここしかないというタイミングだったのだろう、そう、しみじみ思う。
~それはいくつもの偶然としか思えないようなものが、振り返ってみれば必然のように見える不思議なつながりを持ち続けた結果である。~
前記事「私はこうして百姓になった~後編~」より
うまく言えないが、乗りかかった、私たちの船は、<私は本当に馬鹿としか言いようがないのだが>、どこか私の意志とは関係なく、何かもっと他の自然の大きな流れの中にいるような感覚があって、私はそこに身を任せているような感じだった。
でもそれは決して穏やかな安心の中にいるのではなく、前述してきたように、リスクに満ち、常に身を切るような喜怒哀楽が共にあり、虚空に踏み出した足下には何もなく、安定というものから最もかけ離れたところを進んでいた。
本質的には今も変わるところはない。
かのボブ・ディランは自伝の中で、祖母について以下のように述べている。
「彼女は気品にあふれた善良な人で、幸せとはどこかに向かう道の途中にあるのではないと話してくれた。幸せとは道そのものだと。また人はみな、それぞれつらい戦いをしているのだから、親切にしなくてはならないとも教えてくれた。」 ボブ・ディラン自伝(ボブ・ディラン=著 菅野ヘッケル=訳 2005 p26)
そうか、私も戦っているが、皆も戦っているのか・・・おそらく人には人それぞれに超えていかなければならない壁があるのだ。
いずれにせよ、小屋、電気、水道は確保できた。しかし、 “農家として食べていけるだけの基盤”を整えるための道はまだまだ続いた。乗り越えなければならない壁がいくつも立ちはだかった。
(つづく)
<追記>
借りた小屋の床は土がむき出しのままだった。
それを見た親分は言った。「これでは仕事にならんで。コンクリートの打ち込みをしてあげるから、大家さんに許可もらってきーな」
借りている小屋に手を加える(コンクリート打設)という発想は私には皆無だった。
私にとっては思いもよらぬ大胆な発想だったが、背中を押されて、大家さんに許可をもらい、コンクリ-トの打ち込みを行った。
コンクリートで平らに馴らされた床は快適だった。このコンクリートがあるかないかの差はあまりに大きかった。土がむき出しのままの状態では多くの弊害が生じたに違いない。
私は“小屋”という拠点作りにおいて“親分”には随分お世話になった。立ち上げ時に親分の力添えがなければ私は遙か高くそびえる壁を乗り越えることは到底できなかっただろう。
