私はこうして百姓になった~前編~

自宅近くの公園にて
自宅近くの公園にて

私は京都亀岡の山のふもとで自然農法を営んでいる農家(百姓)である。無農薬・無肥料の自然栽培米などを育てている。

農に縁もゆかりもなかった私が、一体どういう道を辿ってここまでやってきたのか。ここに掲げる物語は風変わりな物語である。

退職届~2007年冬~

私は「自然農法国際研究開発センター」(以下:自然農法センター)というところで日々働いていたが、2007年の夏も終わりに近づいたある日、私は本気で仕事を辞めたくなった。それも猛烈に。ちょっとした“きっかけ”みたいなものはあったのかもしれないが、それは表面的なものであって、本当は確かな理由など何もなかった(だからその退職の理由という点において私は多くの人に誤解を与えたかもしれない)。とにかく一言で言うなら、何の理由もなく“ただ命がけで辞めたくなった”のである。

退職当時、何か書いていたことを思い出してパソコンの中を探していたら、妻に会社を辞めることを伝えた時の模様を拙い小説風に書いたものが出てきたので、思い切って掲載してみようと思う。興味がある方は是非どうぞ→ (3分小説)「会社辞めるわ」

自然農法センターの日々

すべてが新鮮

私は2007年まで先に述べた「自然農法センター」に籍を置き、農薬や化学肥料を使わない自然農法の稲の栽培や研究、そして農家現場でのフィールドワークや技術普及に従事していた。自分で言うのも何だが私は仕事(自然農法の水稲)に熱心だった。いつも自然農法の水稲栽培のことばかり考えていたと言っても過言ではない。

私は農学部を卒業したと言っても水産学科の出身だったので一から農学を勉強した(しかし意外なことに私の湖沼生態系での体験は水稲栽培に活かされた)。暇さえあれば農に関する本を読んだ。私は本好きだが自然農法センター時代は農以外の本はほとんど読まなかった。

自然農法センターでは諸先輩方や文献から数え切れないくらい多くのことを教わった。自然農法のこと、その由来、知識、智恵、技術、考え方、精神性、体験談、私は共感し、乾き切ったスポンジのごとくそれらを吸収した。それらは本当に素晴らしかった。自然農法への興味は尽きなかった。

見るもの聞くもの、すべてが新鮮で、すべてが“きらきら”していた。その時のことを思い出すと今でも胸がときめく。自然農法の世界は“最高に面白い”世界だった。

研究者になる

自然農法センターには1997年に入社した。研修期間を経た後、水稲の研究者として長野県の農業試験場に着任した。自然農法センター所有田での実際の自然農法栽培、早起きしての毎日の水回りや田を区割りしての比較試験や研究、それらは時に大変だったがすべてが新鮮でやりがいがあった。私は仕事を心から楽しんだ。中国吉林省から毎年入れ替わり水稲の研究者がやってきたが、彼らといっしょに仕事をすることはとても楽しかった。彼ら中国人から稲の交配方法など色々なことを教わったが“畦のモグラ穴を塞ぐ方法”は今でも大変役立っている。

上司の計らいで手取り足取りの指導を頂きながら学会でもいくつか発表させて頂いた。学者の世界はとても優雅で心惹かれるものがあったし、居心地が良かった。しかし実際の農家現場とは随分かけ離れているように感じた。例えば農の基礎研究からその先の農家現場までの距離が遠いのは当たり前だが、それは同じものを扱っているようでいて、(少なくとも自然農法に関しては)実は全く別のものを扱っているように思った。それは農学研究が間違っているというわけでは決してなく、農学研究とは場合によってはミクロの研究であるが(もちろんすべてではないが)、つまりひたすら細かい世界に入っていくような感じだが、農(百姓)の現場はまったく違うと思うからだ。とりわけ自然農法の現場は科学しきれない全体の中で生きていると思う、たぶん。

そして私は自然農法の稲の栽培や研究において一定の経験を経た後、農家現場に出た。宮城県、そして岡山県に赴任し、東北地区や中国地区を中心に各地の色々な田んぼを観察して回る機会に恵まれた。農家への技術普及に努める一方で、フィールドワーク(実地研究)を主な仕事に定め、田んぼから田んぼへと観察に明け暮れる日々を過ごした。私は研究することが好きだった。ただ懸命な日々の中で、私は、各地の農家の田んぼから、そして農家から多くのことを教わった。それは何物にも代えがたい貴重な経験となった。

何故辞めたのか

何故辞めたのか?理解してもらえないかもしれないが、私の主観的身体的なものとして、何か見えない抗いがたい大きな力が自分自身に働いたような感覚である。昔読んだ、五木寛之さんの「他力」という本(確か親鸞らの思想について書かれた本)の中に“我が計らいにあらず”という文言があったと記憶しているが、まさにこの“我が計らいにあらず”が退職を決めた当時の心境としては一番しっくりくる。 “親鸞好き”だった恩師に、電話でこの事を伝えると“妙に納得された感”が伝わってきて逆にこちらのほうが驚いてしまったことをよく覚えている。別な表現をすれば、私は運命に追いつめられたのだ。

かくして私は我が意の及ばぬ何か見えない大きな力に体ごと心ごと突き動かされるようにして(運命に追いつめられるようにして)退職したのである。

遠隔地から上役達がわざわざ足を運び熱意を持って引き留めてくれたことは本当に有り難かったが、決心は固かったので、そのぶん心苦しかった。

底が見えない暗闇に飛び込む

農家には絶対ならない

こうして文にすると“退職”は簡単そうに見える。

しかし私はあろうことか妻子のある身ながら次ぎの計画(職)を何も用意せずに辞めようとしていたのである。

だから次ぎの行き先が全く定まらぬ、行く当てのない私にとっての退職は“底が全く見えない深い暗闇”の中に、すがりつくものが何もないまま飛び込むような感覚に極めて似ていた。未だかつて経験したことのないような恐怖と不安を抱かずにはいられなかった。

次ぎの行き先が定まらぬ??経験を活かして農家になるつもりだったんだろう??
いや違う。全く違う。その逆である。
私は数多くの農家現場を回っていて、農家の大変さを知っていたので“農家には絶対にならない”と決めていた。そう確信していたのである。

かすかな光

それでも“深い暗闇”に命綱なしに飛び込むことができたのは、その暗闇の奥の方に“点のような微かな光”を見出すことが出来たからである。その小さな光が私に勇気を与えてくれた。その光がなければ私は果たしてその暗闇に飛び込めるほどの勇気を持つことができただろうか?それほどに退職(生活の支えを失うこと)には恐怖を抱いたし、ゆえにその小さな光は真っ暗闇の中の唯一の手がかりだったのだ。

その光とは一体何だったのか?

それは芸術だった。芸術?おそらく変に思われただろう。しかし家族を抱えた私にすれば命がけのことなのだ。真剣そのものなのだ。

では芸術家にでもなるつもりだったのか?(当時は実際そう思っていた人もいるかもしれないが)いやいやとんでもない、これもまた全然違う。

芸術への開眼

浦上玉堂との出会い

退職する前年、岡山県の普及所に赴任していた頃、郷土ゆかりの江戸時代の水墨画家であった浦上玉堂の大展覧会が開催されていて私は機会があって2回足を運んだ。買ってきた図録(画集)を夕食後ダイニングテーブルに拡げて何気にパラパラめくっていると、今までに感じたことのない“胸のときめき”を感じた。この感覚は筆舌に尽くしがたいものがある。今までに味わったことのない高揚感であり、ときめきだった。私は芸術に対して私の心の眼が開かれたことに気づいた。私はその瞬間に芸術(美)に目覚めたのだ。

芸術(最初の頃は絵画が対象だった)、それは快感であり、ときめきであり、ワクワクであり、タイムスリップであり、非日常であり、異世界であり、誘(いざな)いである、それらの名画に向かい合った時の心の衝撃を言葉で表現することは難しいかもしれない。胸の真ん中がときめくのだ。翌年の夏休み(退職を決意する少し前)には和歌山県の無量寺まで長沢蘆雪の虎図を観に行った。それは本当に素晴らしかった。

私は完全に芸術の虜(とりこ)になっていた。芸術、それは“美”である。

<芸術余談> → 「コローと歌川広重」

芸術への渇望

“仕事を辞めたい”と本気で感じたことと交差するように私の心に立ち上がってきたのは“芸術への渇望”だった。 “芸術作品をただひたすら鑑賞したい”。それは日に日に抑えがたいほどに強くなっていった。それは喉がカラカラに渇いた時に水を欲する感覚に極めて近いものがあった。

芸術への渇望が強くなるにつれて益々仕事を辞めたくなってきた。私は知らず知らずのうちにどこか疲れていたのかもしれない。気づけば私の心からはどんどんどんどん何もかもが脱抜け落ちていき、心は気持ち良いほど空っぽになっていって、ただただ芸術を渇望した。これはもう常軌を逸するという意味において私は完全にどうかしていた。しかし後述するように、これほど一人の人間として芸術と向き合えることは私の生涯ではもう二度とないと思っている。それは至高体験だった。

私は退職する前に長期休暇を頂き(そして退職してからも)喉の渇きを癒やすように、貪るように芸術鑑賞に耽った。毎日のように、各地の展覧会や寺社の宝物殿を回った。私は可能ならば芸術作品の前に座り込んで丸一日過ごしたいと思った。

退職後の行き先が定まらぬ、世間に居場所がない、極めて不安定なたった一人の人間として、巨匠達の芸術に向き合う体験は、私の生涯に一度あるかないかの極めて貴重な芸術体験だった。あの頃ほどに芸術が心に染みることはもうないのかもしれない。

この先どうなるのだろう、どこへ行けばいいのだろう、悲しくて、寂しくて、不安で、心細くて・・・

閉館前の滋賀県信楽町のミホミュージアム、誰もいなくなった最上階の一番奥の小さな展示室の中、ただ空調の音だけが静かに響く中で私は与謝蕪村の「鳶・鴉図」に一人向き合っていた。風雪に耐えている鳥は、まさに私であり、私達だった。

与謝蕪村「鳶・鴉図」
与謝蕪村「鳶・鴉図」

与謝蕪村「鳶・鴉図」

時に孤独感に身を搾られるような悽愴感の中で、私はあの時、確かに時代を遡り彼ら(巨匠達)と語り合うことが出来たのだ。非日常的な異世界(美)の中に誘(いざな)われ入り込むことが出来たのだ。あの遙か昔の巨匠達の息遣いは今でも私の心の奥深くに刻まれている。

本の執筆

こうして“喉の渇き”を潤された私は、退職後の冬から拙著「自然農法の水稲栽培」の執筆に取りかかった。それは自然農法センター時代の仕事の延長だった。私の“自然農法の稲”への情熱は消えていなかった。それは私の中で熱を持っていた。

すべてを吐き出すように私は朝から晩まで執筆に没頭し冬から春にかけて(一部を残して)数ヶ月で一気に書き上げた。

こうして私はようやくやるべき、いや、やりたかったことのほぼすべてをやり終えることが出来た。2008年春のことである。

本格的な職探し

さあ、これから本格的に職探しをやらなきゃな。もちろん、芸術鑑賞や執筆に没頭している間も次の職のことを意識しない訳にはいかなかった。

職安に行ったり(あまり行かなかったが)、街をうろついたり、あれこれ頭の中で考えたり・・・そしてまた職安に行ったり、街をうろついたり、あれこれ頭の中で考えたり・・・この繰り返し・・・しかし一向に何も見つからないし何も考えが浮かんでこない。

退職してしばらくは自然農法センターとのつながりを感じていた。余韻と言ってもいいのかもしれない。しかし時が流れ自然農法センターとのつながりがどんどん希薄になってくると私はたった一人であることを深く自覚した。私達の生活は私達の手で何とかしなければならない、誰も助けてはくれないのだという当たり前のことにはっきりと気づいた。

隙間がない

職を探しながら街をうろつく中で強く感じたことは、全く“隙間”がないことだった。それは退職前後、芸術に没頭し展覧会や寺社を巡っていたころから既に感じていたことではあった。私は世間(社会)にはいくらかの隙間があると思っていた。目をこらして真剣に探しさえすれば、いずれそこを見つけることができると。そしてそこに入っていきさえすれば自分に合った仕事を見つけることができると思っていた。しかし現実は想像より遥かに厳しかった。私は世間知らずだった。それは私に土の中の微生物の世界を彷彿とさせた。世間にうまい話なんてあるわけがないのだ、土の中の微生物の世界と同じように、隙間という隙間にはしっかり先に人が入っているのだ。良い席なんて、ましてや特等席なんて、後から来たものに残っているわけなどないのだ。まるで付け入る隙がなかった。私は世間を知った(しかし本当の意味で世間を知るのは就農してからである。就農後のことはまた機会を改めて述べたいと思うが、私は本当に世間知らずだった)。

いわゆる“すべり台社会”の現実を私は眼前につきつけられ身につまされる思いを味わった。いや、私はその時はもう既に当事者だった。私は本当に途方にくれた。

ある日アイスクリームを食べたかったが、子供達にだけ買って私は我慢した。私は一体どうすればいいのだろうか?子供達を連れて自然豊かな公園を散歩しては空や高い木ばかり見ていた。

ただ待つ日々 ~精神を研ぎ澄ます~

私は本当に大切なこと(肝心なこと)は、頭の中で論理的に、強い意志で決定することよりも直感と直観に従うようにしている。つまりできるだけ精神を研ぎ澄ますようにして心のアンテナを清浄にすることを心がける。そして体の力を抜いて自然の流れに身を委ねるようにする。

私はただ待った。来る日も来る日も待った。もう具体的に何かを探すことには早いうちに見切りをつけた。ただただ何かを待ち続けた。前述したように心のアンテナを研ぎ澄まし清浄にすることを心がけ、体の力を抜いて自然の流れに身を任せた。

直観に従う

一応前もって断っておくが、私には霊感はない、もちろん神の啓示のようなものも感じたことはない、私は何の“声”も聞くことはない。ごく当たり前の“直観”があるのみである。

退職してから半年が過ぎた頃、リビングで横になっている時に、何の前触れもなく、それは突然やってきた。

「稲を作ろう」と私は思った。つまり農家になろうと思ったのだ。

そこには何の脈絡もなかった。「うそやろう!」と私は(心の中で)自分に向かって言った。「そりゃないで、農家にだけは絶対ならへんて(なれへんて)退職する時に決めてたやん。農家は大変過ぎるで。」そう、先に述べたように私は本当に農家への道だけは唯一完全に除外していたのだ。

しかし私はようやく訪れた自分の心の声“稲を作ろう(農家になろう)”に素直に従うことに決めた。本当に私は馬鹿である。ここには論理的思考など一切ないのだから。

こんな嘘のような本当の話で私は水稲農家になることに決めた。

かくして私はついに退職後半年にしてようやく一歩を踏み出したのだ。

私が何故農家(百姓)を選んだのか、その理由は“この直観”の後からついて来た。農家になると決めた後で見つけた理由は「私にとっては世界一誇りを持てる仕事である」ということである。そして「農の環境の中で子供を育てたい、育ててやりたい」ということである。気づけばこれは願いであった。農家になってからは農繁期の土日は子供達を作業小屋に連れて行って一日を共に過ごした。田畑でいっしょに汗を流した。経済的には苦しかったが(今も変わらないが)私達はかけがえのない時間を共に過ごすことができたのである。

難航した土地探し

さあ土地を探そう。

その頃は既に耕作放棄地の増加が問題になって久しかった。実際自然農法センターに在籍していた頃、各地の農家現場を車で走っていると田舎に行くほど耕作放棄地が目立った。

だから土地(田んぼ)なんてすぐに見つかるさと高をくくっていた。

私は心の向くまま、まずは長野県に向かった。長野県では南から北へと8日間かけて回った。各地の自治体の職員や農家に会った。久しぶりに東山魁夷館に立ち寄ることもできた。後日、家族を連れて候補地とおぼしき北の大地を訪れたが、結局は当てが外れて悲しい思いをした。福井県もあちこち回った。福井の人は人情があった。料理屋の女将から「一人旅ですか?」と聞かれたが田んぼを探しているとは言えなかった。福井は魚が最高に美味しかった。途中で海釣りもした。そこで出会ったあんちゃんは釣れるポイントを惜しげも無く教えてくれた。良い奴だった。京都も北の方を中心にあちこち回った。色々と世話を焼いてもらったが、田んぼは見つからなかった。

現実は厳しかった。農村は閉鎖的であり保守的なところである。つまり何処の馬の骨とも分からない者を簡単に受け入れる訳にはいかないのだ。それに“無農薬は困る”とあからさまに難色を示されることもあった。ましてや田んぼは特別なものらしい。だから私のようにいきなり“何ヘクタールもの水田を無農薬でやる”という看板を掲げているようでは到底見つかるはずはなかった。私は何も知らなかったのである。

全国各地に知り合いの農家がいたので可能であるなら助けを求めることも出来たかもしれないが、私は誰にも知られずひっそりと農業がしたかった(でも実際はお米を売らないといけないのでそういう訳にはいかなかったが・・・)。

それでもなかなか見つからない

新規就農相談センターみたいなところを訪れたり、就農希望者が自治体などと面談できる就農セミナーに参加してみたりもした。やはりここでも最初から3ヘクタールを無農薬でお願いしますなんてのは無理な話だった。それに各地の田んぼをあちこち回っていてしみじみ感じたのは、条件の良い田んぼは地元の有力な農家や組織がしっかり押さえているということ、そして新規就農者は誰も作らなくなった山の端とか谷間の田んぼみたいなところから始めて行くしかないということであった。

それでも候補地が出てくる度に意気揚々と出かける私に向かって、ある日妻は言った「あまり期待せずに行ったほうがいいんちゃう?またアカンかったらショックが大きいやろ?」
私「いいねいいね、いつもむっちゃ期待して出かけるねん」

そして結局成果は得られずに帰ってくる。「アカンかったわ」その繰り返し。

灯台もと暗し

当時私は京都の亀岡市に住んでいた。自然農法センターを退職した時の赴任地が京都試験農場だったから、引っ越さずにそのまま暮らしていた(ちなみに私は自然農法センターにいる頃、京都の他に、長野県、千葉県、宮城県、岡山県に赴任した)。

その亀岡の地で何気に車を走らせていた時、目の前に広大な田んぼが広がっていることに気がついた。まさにこれこそ“灯台もと暗し”、あるやん、ここに田んぼが。

新規就農者の多くはまずは役場に足を運ぶ。私も早速亀岡市の役場に足を運んだ。当時の農政課の課長は話しが分かる(通じる)人だった。それまでもあちこちの役場を訪ねたが私の要望に沿った対応という意味において亀岡市はダントツだった。地元の広域振興局、改良普及センター、農業委員さんに声をかけてくれて、3者一体となって全面的に支援に乗り出してくれた。亀岡市もあちこちで集落営農や集団転作などが進んでいて、地図を拡げて説明してくれたところによると無農薬自然農法の稲作りを希望する新規就農者が入り込める候補地はひとつしかなかった。そこは山のふもとにある地区だった。

とうとう決まった

早速当地区に伺い農家組合長に引き合わさせてもらった。「ここらへんの田んぼが空いているけど、どうや?」
私はとてもうれしかった。今から思えば山ふもとの条件が厳しい所ではあったが「ここが君の田んぼや」と具体的に示されたのは初めてだった。
「水は大丈夫ですか?」水が一番心配だった。
「水は大丈夫!山からきれいな谷水がくる。足りなければ沢池の水を汲み上げることができる」(確かに水の質は良かった。沢池の水源も谷水と湧水だし、隣の山は良水で有名な出雲大神宮のご神体山だった。)

組合長の「水は大丈夫」の一言を聞いて私は即決した。とうとう決まった。
(当時の農政課、広域振興局、改良普及センターそして農業委員の皆様、本当に有難うございました。)

当地は水と土の質が良いので本当に美味しいお米を育ててくれる。しかし谷水が中心なので絶対量が足りない。私はそのことで地元の農家と時々喧嘩になったし、田んぼの雑草対策でも苦労している。でも私は「水は大丈夫」と言ってくれた当時の組合長に感謝している。何せこんな僕を受け入れてくれたのだから。それにその一言がなかったら、私は当地を諦めていただろうし、その先田んぼを見つけることはできなかっただろうと思っている。とてもお世話になった。最初の頃は毎日のように様子を見に来てくれた。まあ私が本当にちゃんと出来るのかとても心配だったのかもしれないが・・・

自然農法センターを退職してから半年かけて“農家になる”ことを決めて、そこからまた半年かけて“就農場所”を探した。1年かかった。1年もかかったよ。ようやく私は居場所を見つけることが出来た。妻は大いに不安だっただろうがよく支えてくれた、そして子供達はどこまでも無邪気だった。

「さあこれで一安心」ではなかった、本当の苦難はこれから始まるのだった。→後編に続く