トンビの生態~百姓観察~

~里山で百姓仕事(自然栽培)をしながらの観察による~

トンビとカラスの喧嘩
トンビとカラスの喧嘩

トンビ(左下)とカラスの喧嘩 2023年3月22日撮影

目次

カラスとの闘い

消えたヌートリアの死体

群がるトンビ

飛びながら食べる技

農(私)にとっての生き物の存在

カラスとの闘い

右羽が欠けているトンビ

先日、トンビとカラスが喧嘩をしているところを撮影した(写真)。トンビとカラスはしょっちゅう喧嘩をしているが、必ずカラスから仕掛ける。ゆえにカラスがトンビにちょっかいを出していると表現したほうが適切かもしれない。こうした光景は農村に限らず至る所で繰り広げられているかもしれない。

トンビは、空に輪を描くように、優雅に飛んでいる。そこへ、カラスが、わざわざ遠くの方から凄い勢いでトンビ目掛けて一直線に飛んできて、いきなりトンビに襲いかかったりする。

その時、カラスはだいたい二羽一組になっている。対するトンビは一羽だ。
たまに1羽どうしで闘っている時もある。

トンビとカラスはどちらが強いか?

トンビは鷲(わし)や鷹(たか)と同じタカ科で見た目もよく似ているのでとても強そうだ。

しかし体の小さいカラスのほうがだいたい勝つ。1対1でもカラスが勝つ。

トンビはカラスに追い回され、高い声をあげながら遠くへ逃げていく。

昔、軽トラで農道を走っていた時、高い畦に止まっていたトンビと不意に間近で目が合った。トンビは見るからにどぎまきして目をそらした。そう、この時初めて知った、トンビは気が弱くて優しいということを(これが鷹や鷲なら、また違った反応を示すのではないかと思った)。

しかし写真に写っている右の羽が大きく欠けているトンビだけは、カラスが二羽でも、カラスに負けない。このトンビは気が恐ろしく強い。だいたいカラスを追い払う。こんなトンビはここでは他にいない。このトンビだけだ。このトンビの右羽が欠けているのは、おそらく以前にカラスとのケンカで負傷したためではないかと推測している。

トンビ(真ん中)とカラスの喧嘩
トンビ(真ん中)とカラスの喧嘩

トンビ(真ん中)に追い払われる二羽のカラス 2023年3月22日撮影

仲間を助けるトンビ

以前、二羽のカラスにやられていたトンビを、別のトンビが助けたことがあった。そのトンビはやや斜めから角度をつけて猛烈な勢いで二羽のカラス目掛けて突っ込み、その二羽のカラスを追い払ったのだ。その時の模様は当時のブログに書いたが(下記参照)、こんな光景を目にしたのは後にも先にもこれ一度だけである。

今にして思えば、この仲間を助けたトンビこそ、前述した右羽の欠けたトンビっだったのではないだろうか?

この出来事により、トンビにも、人に近い感情があることを知った。仲間がやられていることを認識し、仲間を助けようとトンビは思ったのだ。怒り、悲しみ、友情、同情、そんな思い。

ではカラスは?
言わずと知れたことだが、カラスは見るからに賢い。遊び心もいたずら心も持っているし、いつも何か考えを持っているようだ。ちなみにカラスは体全体に占める脳の割合(脳化指数)が高く、つまり脳が大きく、犬より知能が高いとも言われている。
一連の行動から推測するならトンビもかなり知能が高いのかもしれない。だからこそカラスも執拗に付け狙うのかもしれない。

2018.05.30 Wednesday 「トンビ、仲間を助ける」
田んぼの代掻きを終えた帰り道、鳴き声がするので空を見上げると一羽のトンビが二羽のカラスに追いかけ回されていた(よく見る光景だ、そうトンビはいつもカラスに負けているのだ)、するとすぐ目の前から別の一羽のトンビが飛び立ったかと思うと猛烈な勢いでその二羽のカラスめがけて飛んで行き見事にカラスを追い払った、トンビが仲間を助けた、二羽のカラスへ向かうトンビの姿は勇ましかった、あんなに速く、あんなに真っ直ぐに飛ぶトンビを初めて見た、まるでツバメみたいな、こんな飛び方もできるんだ、うーん感動なのだ(後略)
~旧ブログ 田んぼのたんたんタンケン日記 より引用~

消えたヌートリアの死体

ある夏の盛り、畦道に大きなヌートリアが一匹死んでいた。

よく通る畦道。何とかしなきゃ。これだけ暑いとじきに腐り出す。そうなる前にどこかに埋めてやらなきゃ。ヌートリアを見ながら色々考える。

しかし・・・忙しさにかまけて、放っておく。

そのうちにヌートリアは腐り始め、猛烈な腐敗臭を発し始めた。傍に行くこともためらうほどに。

ああ、困ったな・・・、こうなりゃ、自然に土に還るまでとことん放っておこう。

しかし、ある日、忽然とヌートリアの死体が消えた!!

親切な誰かが片付けてくれた??それとも何か動物??

何があったか知らないが、いずれにせよ有り難いことだ。

しかし、安堵したのも束の間・・・明くる日の朝、ヌートリアの腐乱死体が元あったのと全く同じ場所に忽然と姿を現わしたのだ。

もう何が何だかさっぱり訳が分からない。

<まるで狐につままれたようだ。>

あり得ない現象に何だか恐くなった。

それにしても不思議だ?一体何が起こったというのだ!?

ヌートリアの死体は更にとろとろに腐敗し、その腐敗臭は凄まじい。

ああ・・・

その日、再度そこを通りかかった。その時何と、トンビがヌートリアの死体を足で掴んで林に向かって飛び去っていくではないか!!衝撃の瞬間だった。

すべてトンビの仕業だったのか!!

なるほど!!これで謎が解けた!!本当に幸運だった。もしヌートリアの死体を運び去るトンビを目撃しなかったなら、おそらくこの謎は解けずに悶々としていたことだろう。

それにしてもトンビは、あれ程までひどく腐乱したものでも、食べることができるのか!?

この事実は私にとっては大きな発見だった。

恐るべし浄化吸収能力。その能力はハゲワシ並か!この時からトンビに対する私の見方が変わった。

群がるトンビ

ある冬の昼下がり、午前の作業を終え、車の中で妻とお弁当を食べていた時のこと。遠くの田んぼで数羽のトンビが低く飛び上がっては降り立つ動作を繰り返していた。

田んぼの中の様子は高い畦に阻まれていて見えない。トンボが舞い上がった時だけ、トンビの姿を確認することができる。

「ありゃ、何かあるな、普通ではない」

昼ご飯もそこそこに様子を見に行く。

すると、田んぼの中、畦に近いところで、雌鹿が一頭、鹿除けネットに片足を絡ませて死んでいた(ネットを飛び越えようとして足を引っかけてしまったようだ)。それにトンビがたかっていたのだ。

田んぼの中に鹿が果てていたなら、本来ならすぐに片付けなければならないだろう。しかし、稲の収穫も終えたし、田んぼでの作業もしばらくないし、寒い冬だし、すぐに腐ることもない。それより何よりトンビがいち早く鹿を見つけた。おそらくカラスも来るだろう。他の動物もやって来るかもしれない。あっという間に骨だけになるだろう。

自然に野生に任せて放っておいたらいい。

日が過ぎ、暖かくなり始めた早春の頃には、その鹿の骨さえほとんど見当たらなかった。

自然恐るべし。自然の中ではすべてが無駄なく循環する。

飛びながら食べる技

秋、コンバインで稲刈りをしていると時々トンビがやって来る。すぐ真上を低空で旋回飛行しているかと思うと、さっと素早く下降して稲穂の上をかすめていく。

おそらくイナゴを補食しているものと思われる。

コンバインを操作しながら、稲穂の上をかすめたトンビのほうに目をやると、トンビはすかさず足を前方に突き出し、同時に頭を下げて、飛びながら足で捕らえた“獲物”をくちばしに運んで食べている。そしてすぐに次の捕食動作に移っている。

獲物を探す、捕まえる、食べる、その一連の動作を飛びながら繰り返している。トンビは器用なのだ。

コンバインやトラクターに乗っていると様々な鳥が集まってきて、普段目にすることのできない姿を間近で観察できることがある。それは、第一に、コンバインやトラクターに乗っている人間は自分達に手出しが出来ないことを鳥達が知っていることと、第二に、当農園のような自然栽培や自然農法の田んぼでは(※)、農薬や化学肥料や除草剤を使っていないために、虫やカエルが非常に多く生息しているためであると思われる。(※:自然栽培米は完全無肥料、自然農法米では米ぬかを施用して栽培)

農(私)にとっての生き物の存在

「農にとっての生き物の存在」と言えば、話は深くなる。

無農薬・無化学肥料・無除草剤、加えて完全無肥料の自然栽培となれば、栽培においては本来の土の力を発揮させることに主眼を置く。土の力とは何か?分からないことも沢山あるが、確かなことは、多種多様な生き物達(土壌生物等)の生息活動による多種多様な密接なつながりのもとに“土の世界”は成り立っているということである。

ゆえに生業として農(自然栽培や自然農法)を営む私にとっての生き物の存在とは私にとっての“生命”そのものである。

このように私にとっての生き物の存在は、私の生活に密接に結びついているが、当記事の主題である“トンビ”の場合はどうか?

自然栽培や自然農法における土の力の発揮という意味においては、確かにトンビの関わりは、土壌生物ほどは深くないかもしれない。

しかし、もしトンビがいなくなってしまえば、あの空を優雅に飛ぶ姿を見られなくなったら、あの長閑な鳴き声を聞くことができなくなったとしたら(それは想像するだけでも恐ろしいことだが)私はたまらなく寂しくなるだろう。

そもそも自然界からトンビがいなくなれば、またひとつ自然のつながりが消えることになり、おそらくどこか見えないところで自然は全体として何かが変り、おそらく同じように人の中でも全く気づかないうちに何かが変わるのではないだろうか?

つまり、私にとっては、トンビをはじめとした鳥達は仕事仲間なのである。毎日見て、毎日声を聞いて、毎日彼ら彼女らと交流しているのだ。広義には前述したような土壌生物のほか自然のすべてが仕事仲間なのである。