自然と人~私の自然観~

先日のブログ<特別な日~3.11という日に~>“人と自然には一蓮托生の側面がある”と書いたことに対する捕捉。
自然
自然

自然の中で何かが損なわれると、人の中で全く何も感じないうちに、それでも確かに人の中でも同じように何かが損なわれるのではないかと思っている。

この“自然と人の関係”については以前にどこかで書いたように思うが、こう強く感じるようになったのは百姓になってからかもしれない。正しいとか間違っているとかではなく、いつのまにかそう感じるようになった、私の主観(身体的感覚か、それとも観念的か、いずれもか)である。

もし例えば、人の手により自然破壊が進むことによって、何かの生物種が絶滅するなら、人もおそらく同じように大切な何かを失う、そう思っている。少なくとも人の中で何かが変わるだろう。

人の経済が優先され、自然は破壊・掠奪され続け、私が子供の頃にはもう既にそれは痛々しいほどだったのに、それでも未だに自然は資本経済のために破壊され続けている、もう涙も涸れ果ててしまうほどに。

今から40年前頃、私が中学生の時に、自然の破壊が凄まじい勢いで進んでいることを、釣り好きであった私は琵琶湖や渓流などで何度も目の当たりにし愕然とした。そんな頃、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」が上映された。自然が好きな理科の先生に薦められたことを覚えている。
“風の谷のナウシカ”は自然農法の世界観そのものだ。

でも自然はおそろしくタフなのだ、無限とさえ思える多重構造、これは毎日、山のふもとで色々な雑草や虫達ともみくちゃになりながら自然農法(自然栽培)を営んでいると肌(身体)で感じる。

本当の意味で、人は自然を傷つけることはできない、自然は人の手に負えるほど“やわ”ではない、自然と人はつながっている、本当の意味で傷ついているのは人だと思う。

最後の最後になっても自然は決して死なない、最後に滅びるのは人だ、自然は自らの生命力で浄化し蘇る、人は自然を破壊しているつもりでも、自然を破壊しているのではなく、自らを傷つけているのだと思っている。

山が豊かで、川が豊かで、海が豊かだと、人は本当に豊かになると私は信じている。

多種多様な命の豊かさこそが人の命の豊かさであると信じている。

例えばニホンオオカミがまだ生きていた時代は、生活が不便で物も乏しかったかもしれないが、今とは次元の違う生命の輝きがあったのだと想像している。

昔に戻りたいのではない、今どうするかなのだ。

私がまだ小さかった頃は、高度経済成長期のまっただ中ではあったけれど、それでもまだ今よりもっと自然の豊かさを実感できたように思う。

それが今では目に見えるほどに、実感できるほどに、自然がやせ細り、生き物が減ってきている。

ニホンオオカミの絶滅は人間とは直接的に関係のない別世界の出来事だったと感じていた私達人間が実感できるほどに、自然の中でそして人の中で大切な何かをこれ以上失えないほどに失ってきているのではないだろうか?

それでも、今なお、人の資本経済のために、自然は削られ破壊され続けている。

どうすれば、自然本来の本当の豊かさを取り戻すことができるのだろうか?

あの中学生の坊主だった頃から自然破壊に心を痛めてきたが、何も答えは見つからない。

世界は今なお自然から搾取し続けている。

もうこれ以上、道もいらないし、線路もいらないし、トンネルもいらないし、建物もいらないし、便利になる必要もないし、新しい物もいらないし、目新しいものもいらないし、流行ものもいらないし、最新の機能もいらないし、最低限でいいし、古くてもいいし、もうこれ以上なーんも欲しくない、ああ少しのお金で暮らせるようになれたらなあ、ああ、それよりもあの川にいっぱい泳ぐ魚の姿が見たい。


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