“前編”では2007年に自然農法センターを退職するところから話しを始めた。 “後編”では1996年まで遡り自然農法センターに就職するまでの経緯について述べていきたい。これもまた前編と同じく“風変わりな物語り”である。
<前編は自然農法センター時代のその後の物語である。後編は自然農法センター時代前の物語である。>
退職する~1996年冬~
その昔、私は魚をさばく仕事をしていた。だから魚をさばくのは得意である。今では料理や魚釣りの趣味に活かされている。まあそんなことはどうでもいい話なのだが、とりあえず私は色々あってそこを退職した。そう、また退職するところから話が始まる。
私は若かったし、独身だったし、未来はまだまだたっぷりあったし、世界は未知なことで溢れていた。しかし私は将来について私なりに真剣に考えた。
退職から数日後のよく晴れた昼下がり、自宅の部屋でボブ・ディランのアルバム「欲望」を聴いていた。窓から見える青空と日差しが心地良かった。 “ジョーイ”が流れた。その時私はさほど悲しくはなかったが、なぜか涙が空に向かってどんどん流れていくような印象を強く持った。私はディランの歌によって心の中で泣いたが、その涙は下には落ちず、上へ上へと流れていった。♪ジョーイ、ジョーイ、ボブ・ディランは歌っていた。
明確な方針
私には次ぎの職を探すにあたり既に明確な方針があった。①哲学的なものを中心に色々な本を読むこと、②心のアンテナの感度を上げること、この2点だけである。
具体的な就職活動は一切しないことに決めていた。それはむしろ“逆効果である”とさえ思えた。
退職後私はよく海釣りに出かけた、ゴルフの打ちっ放しに行った、あちこちドライブに出かけた。私は海に釣り糸を垂れながら、ひたすら心のアンテナを清浄にし感度を上げることに専念した。海に向かって釣り糸を垂れることこそが最良の手段であると私は信じていた。これが私の就職活動だった。これはちなみに前編で述べた自然農法センター退職後に取った行動と基本的には同じである。
当時付き合っていた彼女(現在の妻)と本屋へ行くと、彼女は私の手を引いて就職情報誌のコーナーへ私を連れて行こうとした。違う違う、こっちじゃない、あっちだと、私は哲学コーナーの方を指さした。
出会い
その頃、比嘉輝夫教授の「地球を救う大変革」という本がちょっとしたブームになっていたようだった、私は何気に立ち寄った本屋で棚の目立つ所にあった同著を手に取り購入した(ちなみにこれは就職活動の一環である)。感動した。でも同著によって私の興味が農業に結びついた訳ではなかった。
退職してから日はどんどん過ぎていった。私は何も見つけられなかったし、どこにも辿り着けることは出来なかった。
ある日のこと、私は自室の机に向かっていたが、農業に関する本を間違って購入していることに気づいた。農業?うそやろ?全く興味ないで。でもせっかくなので読んでみることにした。決して悪くはなかった。それでもその時はまだ農業をしたいとは思わなかった。でもこの本が私に何かしらの作用を引き起こしたのかもしれない。
時が流れ日が経つにつれて私の中では農業という選択肢だけが唯一私の中で残されていったように思う。気づけば私の中では選択肢はひとつしかなかった。しかしそれはいくつもある選択肢の中から積極的に農業を選んだわけでない。他には何もなかったのだ。
たった一つの選択肢
退職してから半年以上過ぎていた。もう私には農業しかなかった。農業がいかなるものか、全く知らないくせに、農業しかなかった。ただイメージだけで農業の道に進もうとした。
その頃私は「これからは農の時代」なんてうそぶいていたが、私は私の中のたった一つの選択肢を選んだに過ぎなかった。私には世界も時代も農の未来も、ましてや野望も夢も何もなかった。自分だけがいた。ただひとつ言えることは、一生懸命だったことだけだ。
農業をやるなら、あの「地球を救う大変革」で紹介されていた方法がいい、絶対に無農薬、それ以外は全く考えられなかった、(同著に掲載されていたのか他で調べたのか今となっては定かではないが)同著と関連が深い自然農法センターの京都試験農場(現在はない)が、自宅から1時間くらいで行けるところにあった。私は早速電話をかけて見学を申し出た。見学会は昨日終わったばかりで、次ぎはいついつです、と言われた。
門を叩く
見学会は昨日終わったばかりだ、もう次ぎの開催日まで待っていられない、私はすぐに履歴書を書いて、アポも取らず、着の身着のままで京都試験農場の事務所を訪ねた。「無償で働かせて欲しい。」私としては、農業をやりたいが、何も分からないので、作業を手伝いながら、つまり出来るだけ邪魔にならないようにして、農業を教えて欲しかったのだ。
最初玄関で出迎えてくれたのは、作業ズボンの裾を靴下に入れた、精悍で、感じがすこぶる良い青年だった。これこそ農業の世界に生きる農業ができる人間だと思った。私は初めて農業人に出会ったような気がした。ちょっとお待ち下さいと、次ぎに迎えてくれたのが所長だった。貫禄のある、学者風の、とても雰囲気のある人だった。中に招き入れて頂き、話を聞いて頂いた。上に話しを通してみるから後日連絡するみたいな感じだったと思う。
結果、私は所長、そして本部に受け入れてもらうことができた。無償とは言え、今から思えば、こんな何処の馬の骨とも分からない若造を迎え入れてくれた彼らには感謝しかない(当時はあまり何も考えていなかったような気がするが・・・)。
こうして私は1997年7月の早朝、現地(農場)集合で仕事をさせて頂くことになった。前述したような“衝撃”を受けたがすぐに馴れた。こうして私の農は始まった。それは青春の日々だった。初めて見ること、初めて聞くこと、すべてが新鮮だった。印象的だったのが“風邪は人体の浄化作用である”と教えられたことだ。そして京都試験農場のお米を初めて食べた時は美味しくて感動した。私は生まれて初めて無農薬のお米を食べたのだ。
自然農法との出会い
農場に通い初めてまだ間もないある日、所長といっしょに田んぼの草取りをしていた時のこと「原田くん、自然農法の自然だが、何て読むか知っているか・・・ジネンだよ」
自ずからそうなっていく、自然の摂理・・・
私はこの瞬間、本当の意味で自然農法に出会った。私の中で何かが確かに変わった。私の自然農法はこの時から始まったのだ。私は自然農法に引き込まれていった。それはまた私が“就職活動の一環として読んだ多くの本”とリンクした。自然農法は単なる技術ではなかった、自然農法は私の前で無限の拡がりを見せ始めた。私はもはや自分が農家になるためにここで働いていることを完全に忘れていた。私は本当にその一瞬一瞬を生きた。
自然農法センターに就職する
もはや私は先のことなど何も考えていなかった。そうして2~3ヶ月が過ぎた頃、突然所長に言われた。今度新しくセンターの職員を募集するが採用試験を受けてみないか?前述したように私は自分が何をするために自然農法センターの京都農場に来たのかということはすっかり忘れていた。もちろん自然農法センターの職員になりたいなどとはこれっぽちも願ったことはない。そんな発想が出てくるはずもない。当時の私には何も“こだわり”がなかった。元から何も持っていない、何者でもない、何でも良かった。自然の流れに身を任せるようにしてたんたんと採用試験を受けた。そして私は採用された。退職後に色々と読んだ本が活かされた。当時の専務理事にお褒めのお言葉を頂いたことをよく覚えている。ちなみに当時こういった新人職員の一般募集は滅多にないことだった。私はどういうわけか縁があったのだ。
自然農法センターでの日々については“前編”に示した通りだが、私は“自然農法の稲作り”に夢中になった。思えば稲にも縁があった。実は私は長野県での研修に入る前に手を怪我して研修に入るのが遅れてしまい、その影響もあって当研修中は水稲栽培には全く携わることが出来なかった。だから研修を終えた後の配属先の希望を聞かれた時に“水稲”を希望した。もうひとつ、研修中に受けた水稲研究員(後の師匠)の講義が非常に興味深かったので、この人の下で働きたいと思ったからである。
現在、私は京都亀岡の山ふもとで「京都丹波の里はらだ自然農園」などと名乗ってはいるものの、こうして自然農法米や自然栽培米を育てていることが未だに不思議でならない。私は人生の遍歴の中で気がつけば、遠いあの日に初めて出会った自然農法を生業として生きている。
私は農業も、自然農法センターも、稲つくりも、強い意志で、強く希望した訳ではない。ただ自然の流れに身を任せて流れるように辿り着いたに過ぎない。
それはいくつもの偶然としか思えないようなものが、振り返ってみれば必然のように見える不思議なつながりを持ち続けた結果である。
ここに東山魁夷画伯の一文を紹介する。世界的画家である東山魁夷と私とではあまりに違いがあり過ぎるが、氏の言葉が私のこの“物語”を最もうまく言い表しているように思えるからだ。
東山魁夷著「風景との対話」(新潮選書)より引用抜粋
何者にもなりたくなかった
私は若い頃、何の野望も大きな夢もなかった。時に虚勢を張ることもあったが、本音は何者にもなりたくなかった。ただ「創造的な仕事がしたい」と友に語ったことを覚えている。○○の原田、△△の原田、そんな肩書きは重苦しかった。私は「空が青くて風が気持ち良いと感じることができれば」それで良かった。そのままの自分で良かった。それはうそだったかもしれないし、本当だったかもしれないけれど、今の私がそれを言えば、嘯(うそぶ)くことになるだろう。生存競争に晒されながら歳月を重ねるうちに、やっぱり○○でも△△でも肩書き(つまり社会的地位)があると何かと楽に生きることができると少しは思うようになった。私は農家になって経済的な面で大いに苦労したからだ(それは今もあまり変わらないが・・・)。
私の百姓観
私は、思えば、あの頃の私の願いを叶えたのかもしれない。
なぜなら、私が思う、私なりの、私の百姓は“何者でもない”からだ。<これは極めて個人的な見解であるということをご了承頂きたい。>
<百姓は自然に従うのみである。ただ自然に仕える者である、自然の前では自分はない。>
かつて自然の前で必死に自分を立てようとしてもがき、ことごとく自分を立てることができなかった、私の“百姓観”である。
いっぽうで百姓仕事は自然が相手の創造的な仕事でもある。自然と折り合いをつけるために、自然を観察し、自然を知る努力をし、自然の摂理に従おうとする。
その過程で自然相手に自分の道理を押しつけることはできないが、自然の摂理に自分を合わせる過程を創造的に楽しむことができる。そこに自分を見出すことはあるのかもしれない。
もちろん農業として、仕事に自分のこだわり(思い入れ)を持っているし、こうしたい、こうしよう、という思いはある。しかし、私の根っこにある“私の百姓観”は上に述べた通りである。
その日々の中で感じたことは、自分(技術)を田んぼに押しつけるのではなくて、自然(田んぼ)に合わせるしかないということである。
そして独立し自然農法農家になってしみじみ感じたことは、自然(田んぼ)を前にしたら、”自分はない”ということだった。
つまり自然農法農家という日々の経験の中で、自然(田んぼ)の前では、自分は”何者でもないのだ”と。自然の摂理に従っているだけだ、ただ自然に仕えているだけなのだと。
自然の中で打ち立てようとする”我”の、なんて脆く弱く頼りないことか、自然にとっては人の我なんてどこ吹く風、自然の摂理は、その摂理に則って、ただたんたんと進んでいく、無情でもなく、不条理でもなく、ただすべてをつかさどる大自然があるのみである、私はただ一人の百姓としてその大自然の中のただ一部としてそこにいるだけなのだ。
当HP内「自然栽培米について」より一部改変して引用抜粋
こうして百姓になった
いずれにせよ、私はこうして百姓になったのだ。
縁あって、京都亀岡の山のふもとで、自然農法を生業として、自然栽培米を育てている。
繰り返すが、本当に自分がこうして農業を生業として生きていることが不思議でならないのだ。
自然に合わせよう、そう思うと、稲の収穫を終えたばかりだが、田んぼの観察に身が入るし、来年の栽培に向けて胸がときめく。
ここまでお付き合い頂き有難うございました。
(完)