生き物とのリアルな関係 ~里山で自然栽培を営む百姓の実際~

田植え後まもない稲の葉を食む雌鹿 2016年6月23日夕暮れ時、当農園にて撮影
田植え後まもない稲の葉を食む雌鹿 2016年6月23日夕暮れ時、当農園にて撮影

田植え後まもない稲の葉を食む雌鹿 2016年6月23日夕暮れ時、当農園にて撮影

目次

1.はじめに

2.生き物の存在を常に意識する、または意識せざるを得ない百姓の日常

●都会のオフィスと田舎の田んぼ~その好対照~

3.飛び出す動物

●猪の全力疾走

●走る鹿

●突然飛び立つ!鴨とキジ!

4.ハチ編

●アシナガバチの場合

●スズメバチの脅威

スズメバチに刺される!

刺されないためには?

発見!スズメバチの巣

巣を退治する

5.ヘビ編

●マムシは逃げない

●野生の勘を磨く

6.意図しない殺生

7.害虫について

8.身近にある生き物の生き死に

9.獣害について~野生動物による農作物への被害

●イノシシとシカによる農作物への被害

10.疲弊する自然 ~個人的所感~

11.おわりに 自然と折り合うために

はじめに

私は京都丹波の山のふもとに位置する里山で農薬や化学肥料や除草剤を一切使わずに自然栽培米や自然農法米を育てている百姓である。

自然栽培は完全無肥料だが、自然農法では田んぼの生き物を育てるために米ぬかを施用している。いずれにせよ、自然の力、土の力を最大限に発揮させることに主眼を置いているため、微生物を始めとした多種多様な生き物、そしてそのつながりはとても大切であると考えている。

ここまでの話なら、さぞかし牧歌的で微笑ましい生き物との共生関係が繰り広げられていることであろうと想像されるかもしれない。

実際、農薬や化学肥料や除草剤を一切使わずに自然栽培や自然農法を営んでいると生き物は増えるし、生き物達との豊かな共生関係は築かれていく。それは農の楽しみでもある。

しかしそれは自然栽培・自然農法という栽培から見たひとつの視点(側面)であって、実際の農の現場では、栽培とは関わりはあるものの全く別の形の生き物との関係があり、それは多種多様でリアルで、時にとても危険で、決して心温まるものばかりではない。

当記事は、山ふもとで農を営むという生業(なりわい)の中で、自分の身を守り、生計を立てていく為に、日々出会う生き物とどう関わっているのか、またどんな関係性があるのか、その個人的実際を述べたものである。

これまでにも生き物に関する記事はいくつか書いてきているが、今回は今まで紹介してこなかった、よりリアルかつシリアスな生き物との関係性を中心に紹介したい。思わず眉をひそめたくなるような内容もあるかもしれないが、ご容赦いただきたい。

生き物の存在を常に意識する、または意識せざるを得ない百姓の日常

アゲハチョウ 自然農法田の畦にて2014年9月6日撮影
アゲハチョウ 自然農法田の畦にて2014年9月6日撮影

アゲハチョウ 自然農法田の畦にて2014年9月6日撮影

百姓(農家)の日常、とりわけ山ふもとでの農作業の日々は生き物との密接な関係状態にある。常に生き物の存在、その息遣いを間近に感じることが多いため、常に生き物を意識するか、または意識せざるを得ない状態にある。私の場合は後に述べるような様々経験などから意識するにせよ、しないにせよ常に身体全体で感じるようにしている(努力している)。

自然栽培や自然農法では、土の力の発揮に主眼を置くため、常日頃から田んぼの中の生き物への意識は強いが、先に述べたように、里山農業の現場では様々な種類の生き物との様々な関係がある。

都会のオフィスと田舎の田んぼ~その好対照~

仕事の関係で京都市中心部のオフィスビルに何度か足を運んだことがある。その綺麗な建物の中のよく磨かれた階段を登っている時、その曲がり角の死角から突然、鹿やヘビが飛び出してくることはないだろうな(当たり前のことであるが・・・)、職場は職場でも、うち(農園)とはえらい違いだと思ったことがある。山ふもとの田んぼでは、いつ生き物が飛び出してきても何ら不思議ではない。おそらく農繁期の田んぼ(野生)モードの時に伺ったのだろう。その時は田舎の田んぼとオフィスビルの洗練された空間があまりに対照的なものとして感じられた。それはつまり、私が日々の仕事(農作業)の中で生き物とのある種の緊張状態の中にいるがゆえにである。

飛び出す動物

キツネ 作業小屋から撮影 2018年1月11日
キツネ 作業小屋から撮影 2018年1月11日

キツネ 作業小屋から撮影 2018年1月11日

”オフィスビルの階段の死角から生き物が飛び出してくる”というような話が出てきたので、余談も交えながら、これに関連した話から紹介していきたい。

私のところの農の現場では、実際色々なところから色々な生き物が飛び出してくる。

猪の全力疾走

猪はとても臆病で用心深い動物である。そしてとても賢く学習能力も高いので手強い。

夜になって暗くならないと行動しないようで昼間に見かけることはない。でも時々夜明け前の薄暗い中で見かける時がある。

まだ薄暗い、ある夏の早朝、歩いて田んぼの見回りをしていた時のこと。農道をまたいで高い畦の上から田んぼを覗くと、真下に一頭の子猪がいた(子猪と言っても、いわゆる瓜坊ではなく、もう立派な猪ではあるが・・・)。

私も子猪も驚いた。わたしが気づくが早いか、子猪は猛突進で、私の目の前の長い急斜面を駆け上り、あっという間に藪の暗闇の中に駆け込んでいった。その瞬発力、加速力、敏捷性、足の回転の速さ、肩・背中から四肢にかけてみなぎる躍動感、目の前で繰り広げられた一瞬の出来事に私は身動きひとつせず、驚くべき野生の力(パワー)にただ圧倒された。

今まで何度か猪に出くわしているが、猪のあんな必死の命がけの全力疾走を見たのは初めてだった。それは凄まじかった。子猪でさえあれなのだから、大人の猪のパワーはいかなるものか、恐るべきものがある。

猪は、固い地面から、重機でもないと掘り起こせないような大きな石を夜の間に掘り起こしていることがある。

猪を見るといつも思うのだが、猪こそは山の主である、猪は山そのものである、それは人が決して立ち入ることが出来ない山の神の領域で暮らしているのだ、と。

そんな猪が人里に出てきて田畑を荒らす。ひどく荒らす。その関係性は田舎を、あらゆるすべてを疲弊させる。この話はまた後にしよう。

走る鹿

鹿の角:鹿が田んぼの畦などに落としていく 農園にて撮影
鹿の角:鹿が田んぼの畦などに落としていく 農園にて撮影

鹿の角:鹿が田んぼの畦などに落としていく 農園にて撮影

鹿は猪より頻繁に出会う。昼間でも見かける。食べ物を口に含んでもぐもぐさせながら、一定の距離を保ってこちらをじっと観察したりもする。人慣れしているのか大胆なのか、猪ほど人を怖がらない。

6月の田植えの最中、まさにその田んぼの中を、立派な角を持った二頭の雄鹿が、豪快な水しぶきをあげながら、もの凄い勢いで走り抜けたことがある。鹿は軽トラにいた妻のすぐ傍を走り抜けたのだ。鹿は必死だったし(まるで何かに追われているようだった)、とても危険な疾走だったが、その光景はまるで映画のワンシーンのようだった。

その鹿も田畑を荒らす。田畑の作物を食い荒らす。この話も猪と併せて後述したい。

軽トラで農道を走っていた時、農道にいた一頭の雌鹿に出くわした。雌鹿は農道を走って逃げた。私は軽トラで雌鹿を追った。雌鹿のすぐ後ろを走りながら私は鹿の後脚に見とれていた。そのバネ、その跳躍力、その気持ち良いほどの走り方に。上記の猪は全身筋肉の塊のようだったが、鹿のパワーは後脚にあると思った。300mほど走った後、突き当たりの田んぼの電柵を後脚の跳躍力で楽々と飛び越え、あっという間に田んぼを突っ切り、その先の山の中に消えていった。野生動物の運動神経、そのパワー恐るべし。

突然飛び立つ!鴨とキジ!

当農園の田んぼの中を泳ぐ飛来してきた野生鴨 2015年6月22日撮影
当農園の田んぼの中を泳ぐ飛来してきた野生鴨 2015年6月22日撮影

当農園の田んぼの中を泳ぐ、飛来してきた野生鴨 2015年6月22日撮影

6月の田植え期間中は田植えに追われてほとんど畦草刈りができないので、梅雨の雨や暑さのせいもあって雑草が勢いよく伸びる。田植えが終わり、草がよく伸びた畦を刈払機で刈り進めていると、草の中から、それも刈払機の刃が当たるのではないかと思われるほどの至近距離から突然野生の鴨が勢いよく飛び立つことがある。これには驚かされる。

鴨は畦草の中に作った巣の卵を温めているのだ。その卵を自分の身が切られるかどうかの寸前まで守っている。刈払機は大きなエンジン音を立てる。鴨は刈刃の振動波も感知しているはずだ。普段鴨は少し人が近づいただけでも飛び立っていく。そんな鴨が恐怖心に打ち勝ち、人間が近づいてもギリギリまで逃げずに卵を守る。野生動物の生殖本能には頭が下がる。

キジも同じく潜んでいる畦草の中から突然飛び立つことがある。キジは体も大きく、その羽音は凄まじく大きいので鴨以上にかなり驚かされる。

雄のキジ 2017年3月22日に農園近くで撮影
雄のキジ 2017年3月22日に農園近くで撮影

雄のキジ 2017年3月22日に農園近くで撮影

繁殖期、真っ赤な顔の雄キジは、畦や田んぼや農道をやたらと走り回っている。キジはとても速く走ることができる。キジは飛ぶより走るほうが得意かのようだ。雄キジに目が行くその視界の端に数羽の雌キジが身を低くしてコソコソと逃げるように素早く走っていくのを見ることがある。目立つように走る雄キジとは対照的だ。おそらく雄キジは敵の目から雌キジを隠すために、あえて目立つように私の目の前を走っていくのだろう。観察しているとそんな感じがする。これも生殖本能なのだろう。

これまで述べてきた生き物との遭遇(関係性)は、驚かされることはあっても基本的には私達の身に危険が及ぶことはない。動物達の方で避けてくれるからだ。

ここからは遭遇により人の身に危険を及ぼす可能性がある生き物について述べていきたい。

ハチ編

ハチの巣に触ると危険であることは言うまでもないことだが、これも先に述べたような生き物の生殖本能ゆえである。ハチは巣(子)を守るために攻撃するのである。

アシナガバチの場合

~アシナガバチは物陰によく巣を作っていてヒヤっとさせられることが多い。気づけば幸いだが、知らずに触れてしまうと即座に攻撃に遭う。刺されて初めてそこに巣があったことに気づく~

~アシナガバチの攻撃性~
アシナガバチは後述するスズメバチほど攻撃は執拗ではない。私はアシナガバチ系統のハチにはこれまで数度刺されただけなのでハチの攻撃に詳しいわけではないが、すぐ逃げれば攻撃は最初の一度だけにとどまり、それ以上は追ってこない。最初の攻撃に出る役割を担う働きバチは1匹だけで(そんな感じがする)、その一撃を済ませた後はまずは相手の様子を伺う、つまり彼らは必要最低限の攻撃しかしない。

春から秋にかけて、数多くのアシナガバチの巣を見つけることができる。アシナガバチは至る所に巣を作る。思わぬような物陰に作ったりもする。それでも大概の場合は偶然に、または運良く見つけることができ、知らずに触れて刺されてしまうことを回避できている。

それでも、まさかこんな所に!?というような思わぬ所に巣があって、うっかり刺されて痛い目に遭ったことが数度ある。アシナガバチはよく観察してみると大変気の優しいハチであることが分かるが、そんなアシナガバチでも巣に触れると素早く攻撃にでる。ハチの羽音(殺気)を感じるが早いか、時すでに遅しである、その攻撃は的確で素早い。

そしてアシナガバチと言えどかなり痛い。そしてハチに襲われると反射的に逃げる行動に出るので、周りに人がいたり、障害物があったりすると大変危険になる。

だから優しいアシナガバチと言えど、作業小屋や物置小屋などの中で巣を作り始めそうな動きをしている時は殺すようにしている。前述しているように予期せぬような物陰や色々な道具類が置いてある死角に巣をつくられてしまうと大変危険だからだ。

またそうした物陰に既に巣を作り活動しているアシナガバチは、巣に戻る(物陰に入る)動きに確信的なものが見られるので物陰の巣に気づけることもある。普段からハチの何気ない動きに注意しておくことはとても大切である。そして巣を作り始めた頃(子がいない時)はアシナガバチはまず攻撃してこないので、巣が大きくなる前に巣ごと退治するようにしている。後にうっかり巣に触ってしまう可能性があるからだ。

殺生と念仏~念仏を唱える意味~
そうした殺生の時は、必ず”南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)”と唱える。私は仏教徒ではないし(先祖のお墓は浄土宗あるいは浄土真宗のお寺にあるが)、南無阿弥陀仏の意味もよく知らない。しかし、殺生した時や意図せずして生き物をあやめてしまった時は”南無阿弥陀仏”と唱える。そうしようと決めているのではなく自然と唱える。必ずしも”必ず唱える”わけではないが(蚊やブヨでは唱えることはない)、ハチぐらいになると、何らかの意志を持っているようで思わず唱えてしまう。それにこうした場合に、南無阿弥陀仏以上に適当な言葉があるだろうか、少なくとも私にとっては”南無阿弥陀仏”以外に適当な言葉は見つからない。

スズメバチの脅威

スズメバチは見るからに恐ろしい。羽音も大きい。胴体も手足も太い。図体が大きいからかアシナガバチに比べると黄色と黒の色合いも濃くコントラストもはっきりしているように見える(そう感じる)。スズメバチが放つ威圧感のオーラは圧倒的だ。

スズメバチに刺される!

ある秋の朝のこと、田んぼに隣接する山の斜面の草を刈払機で刈っていたら、突然右腕に激痛が走り、見るとオオスズメバチが止まっていた!私は反射的に逃げたが、走って逃げる途中でお尻にも激痛が走る。痛くて走りづらい。お尻を押さえながら足を引きずるようにして農道の軽トラに逃げ込んだ。

私が刺された場所は、直角の山の斜面と畦(背丈ぐらいの急斜面)に挟まれてV字になった狭い溝の中で、畦には獣害対策用の電気柵が張ってあった(つまり逃げ場がほとんどない)。私は反射的に逃げたが、どうやって長い刈払機を肩にかけたまま畦を登り電気柵をくぐり抜けたのか、その時のことをうまく思い出せない。いずれにせよ、それからは万一の場合に備えて(逃げ道確保のため)電気柵の位置を変えた。

私はそれから午前一杯、軽トラに乗って仕事をし、午後は稲刈りをしたが、いずれもお尻が痛くてまともに座れないし、コンバインの操作も刺された右腕で行うことは出来ず極力左腕で行った。夜、湯船に浸かったら毒が頭に回ってくるような感じがした。刺されたところはパンパンに腫れ上がった。

やはりスズメバチの毒は強い。アシナガバチの時は確か翌日には腫れが引いてかゆくなってくるが、スズメバチの場合はしばらく腫れていたように記憶している。

それにしても何故刺されたのか、今後刺されないようにするためにはどうすればいいのだろうか?

刺されないためには?

私はスズメバチの巣に全く気づかなかった。

後日、巣穴を確認しに行ったが、巣穴は山の斜面にあった。オオスズメバチは土の中に巣を作るのだ。驚いたことに私は巣穴のところをしっかり30cmほどの幅で刈り払っていた。この状況を見る限りでは、スズメバチは刃先が巣穴の前を通り過ぎるのを確認してから攻撃したことになる。

それまで私が知っていたことは(知っていると思い込んでいたことは)、スズメバチは巣に近づくと本攻撃に移る前に歯をカチカチ鳴らすなどして威嚇してくるというものだった。だから草刈りをしていても、事前にそうしたスズメバチの威嚇行動を感知することができれば事故は未然に防げるだろうと思い込んでいた(安心していた)。

それは、少なくとも当巣に限っては誤った情報だったのかもしれない。

あるいは刈払機のエンジン音は大きいためスズメバチの出す音は全く聞こえなかったのかもしれない。また飛散防止の保護メガネを着用し、かつ眼前は草に被われていて視界が悪いため、スズメバチの威嚇行動に気づかなかった可能性もある。

いずれにせよ私は巣の存在に気づくことなく刺された。

不幸中の幸いだったのは、スズメバチが巣を作り始めて間もない頃だったので、巣の規模が非常に小さいことだった。もし草刈りに入る日がもっと遅くなっていたら、これだけでは済まなかったかもしれない。

いずれにせよ、私はこの経験から、草刈り中にスズメバチに刺されないようにするためには、事前にこちらが巣の存在に気づく必要があると認識せざるを得ないことになった。

それは必要条件になった。それは、スズメバチは、私の中ではより脅威になったということを意味する。前述したように草刈り中は耳が聞こえにくく視界が悪いため、いざという時に危険を察知しにくい。いわば無防備な状態なのである。

私はそれ以来、電気柵の位置を変えたことは前述したが、その山の斜面一帯の草刈りをする時は、事前に十分に偵察をする。そしてその後、草刈りに入る直前に3~4mの釣り竿で山の斜面を注意してつついてまわる。そうしてスズメバチの巣がないことを十分に確認してから草刈りに入るようにしている。

当里山ではスズメバチはよく見かける。刺されるまではスズメバチは日常の風景の一部だった。でも刺されてからはスズメバチは現実の脅威となった。

発見!スズメバチの巣

その後、2021年から2023年にかけて3年連続で、当農園の作業小屋の敷地内にスズメバチが4つの巣を作った。1年目は物置小屋の中にひとつ、2年目は植え込みの中にひとつ、そして3年目は朽ち木の中に2つ。物置小屋と植え込みの巣は気づいた時には既に大きな巣が出来上がっていた。物置小屋にはしばらく立ち入ってなかった。思えばその2年はスズメバチをよく見かけた。

物置小屋の巣はまだ発見しやすかったが、それでも、まさかこんな所に!?という場所に巣があったので気づかずに触れてしまう可能性はあった。植え込みの中の巣はかなり見えにくく、よく注意して見ないと全く気づかない奥まったところにあったが、偶然に発見した。それも巣の下を危うく草刈りするところを、たまたま手前で一旦止めていた、まさに間一髪だった。

3年目の朽ち木の中の巣は、作業小屋の目と鼻の先にあったのだが、すぐには気づくことが出来なかった。これも、まさかこんな所に巣が!?というところにあったのだ。何気にスズメバチを目で追っていたら朽ち木の中に入っていったのだ。

巣を退治する

2021年の晩秋、勇気を振り絞って、物置小屋の巣を退治することにした。次年度に備える女王蜂を退治すべく、霜が降りるほど冷え込む朝を待った。寒さでスズメバチの動きが鈍ると考えたのだ。作戦を練るに練って巣穴をふさぐ作戦に出たが、あまりにお粗末な作戦だった。作戦の詳細は省くが、スズメバチの巣があんなに軽くて脆いものだとは思わなかった。

幸いなことに巣はもぬけの殻だった。2~3日前まで確かにいたのに。決行前日、その物置小屋の近くにいた時、私の頭上を、一匹の大きなスズメバチが南に向かって一直線に飛んで行った。その飛び方はまっすぐ線を引いたように迷いがなく確信に満ちていて、今でも脳裏に焼きついているほど印象的だった。

後に、あれは巣を旅立った直後の女王蜂だったのではないだろうかと思った。女王蜂は私の殺気を悟ったのかもしれない。

2年目(2022年)、私は植え込みの巣を退治した。作戦は十分に練った。やや衝撃的だったので詳細は省く。ちなみに殺虫剤は全く使っていない。

3年目の朽ち木の中の巣は、まだ作り始めの頃なので働きバチも少なく(1匹か2匹?)、朽ち木から追い出し(調べてみると木の中は巣作りが進んでいてかなり大きく削られていた)、網で捕らえたが、逃がしたものもいた。スズメバチと言えど、子がいない時は無闇に攻撃してくることはないようだ。それでもスズメバチの動きは思った以上に俊敏だ。

ハチの殺生は心が痛む時があるが、このように作業小屋の近辺に巣を作るなどして危険だと判断した時は、私はハチを退治することにしている。

”自然界に存在する生き物は自分自身の分身である”

私は自然が好きだし自然を愛するが、こうして百姓になってみると、自然に関わりながら(自然と関係を持ちながら)、自然から糧を得ていくことはとても面倒なことであると一方では思っている。なぜなら、自然は手入れを怠ればたちまち荒れていくので、絶え間ない手入れを必要とするからだ。

自然と良い関係を築こうと思えば、常に自然に関わり続けなければならない。そこに面白さや楽しみがあるのだが一方で多くの苦労もあるのである。そして当記事で述べているような危険な要素も多分に含んでいるのである。

更に自然との良好な関係の維持には常時観察を必要とする。つまり手入れの前には必ず観察があるのである。当記事のテーマである生き物との関係はこの観察を元にして初めて成り立つものである。

ヘビ編

マムシは逃げない

普通に暮らしている限り(自然に常時接していない限り)、野生の生きたマムシを見る機会は少ないかもしれない。私は、農繁期は毎日のように朝から晩まで畦や草むらの上を歩き回っているようなものなので必然的にマムシに遭遇する確率が高くなる。全く出会いたくないが出会う。草の間から突然姿を現す、あの銭形模様の存在感は圧倒的である。

同じヘビでもアオダイショウやシマヘビなどはこちらの存在に気づくと一目散に逃げる。しかしマムシはあまり逃げない。のそっとしている。つまり、マムシはこちら側で気づいて、こちらから避ける必要があるということだ。

私はマムシを見つければ必ず殺す。地域の農家が集まって溝掃除をしている時にマムシが出てくれば必ず誰かが退治する。マムシは猛毒だし、とても危険だからだ。やっぱり恐いものだ。

ヤマカガシも毒ヘビであるが、人に気づけばすぐに逃げてくれるし、毒を出す牙は奥にあり、深く噛まれない限り大丈夫なようなので、危険だとは判断していない。

野生の勘を磨く

畦草刈りをしている時に最もヘビに遭遇するが、ヘビがいれば瞬時に草刈りの手を止めてマムシかマムシでないかを見極める(※マムシも草刈り機の刃が最接近すれば逃げ出す。体全体が見えれば一目瞭然であるが、草に隠れて体の一部しか見えなかったりすると判断しづらいことがある)。なぜならマムシは必ず殺すようにしているから、マムシと見間違えて他のヘビを殺してしまわないためだ。

例えば足を踏み入れようとしている、その先の草むらの陰にマムシが潜んでいれば危険だ。

一番重要なことは、5感はもちろんであるが、自分自身の野生の勘を磨いておくことだと思っている。第6感とも言えるものかもしれない。

自然と接する時は”違和感”に気づくことが大切だ、その微妙なズレの違和感に気づいた時には、そこには何かがあるのだ。身体全体で察知するのだ。その感覚を磨いておきたいと思っている。
地元の機械屋さんは、地域の色々な人とつながりがあるが、「そう言えば子供がマムシに噛まれたというのは聞いたことがないですね。」と言っておられた。そう、子供はまだ”野生の勘”を十分に保持しているのだ。そうして知らず知らずのうちに危険を回避しているのだ。

意図しない殺生

トラクター 農園にて
トラクター 農園にて

トラクター 農園にて

農の現場において危険だと判断した場合の意図的な殺生についていくつか述べたが、農作業では全く意図せずして殺生をしてしまうことが多くある。いくつか例を挙げてみる。

  • トラクターで耕起する
  • 田んぼを代かきする
  • クワで土を起こす
  • 畦草を刈る
  • 畦草を燃やす
  • 農道を軽トラで走る
  • 稲刈りをする 等々

こうしてみると農作業の多くは生き物の生き死に深く関係している。特に自然栽培や自然農法の田んぼでは多くの生き物が生息しているので尚更かもしれない。でも農家(百姓)はこんなことでいちいち心を痛めたりしない。これが農だからだ。

農作業では意図せずして多くの生き物を殺生してしまうが、それは田畑に住む生き物がそれほど多いからである。つまり農は多くの生き物を支えている。特に自然栽培や自然農法は、生き物にとってよりよい生育環境を提供し、多種多様な生き物を育てる栽培である。

しかし農作業と言えど心を痛める例外がある。畦草刈りだが、全く意図せずして全く意図してない生き物を傷つけ殺してしまうことがある。その可能性を多分に含んでいる作業だと言える。回避できるなら回避したいと思う。あるいはトラクターに乗っている時とは違い、その過程が直接見えてしまうということが大きいのかもしれない。(※ちなみにトラクターでカエルなどを踏んでしまいそうな時はトラクターを止めたり速度を緩めたりすることもある。)

なかでも強く心を痛めるのは、カエルやヘビを傷つけてしまった時だ。無残な切られ方をしていることもある。生存できる可能性がないと判断した場合は”南無阿弥陀仏”と唱えながら即座にとどめを刺す。

私はカエルが大好きだ。トノサマガエルなんて本当に素晴らしいじゃないか。

害虫について

自然農法や自然栽培では害虫はつきものだし、害虫は殺生の対象になる。実は害虫は奥が深い。この記事も長くなってきたので害虫については改めて書いてみたい。よって今回は割愛する。

オケラについて

オケラは害虫にもなる。当農園では、苗代(稲の苗を育てるところ)に湧き水を溜めて苗を育てるが、貴重な水が漏れて欲しくない時に、オケラがそこら中にいっぱい穴を開けて漏水させることがある。これには本当に困るので苗代でオケラを見つけたら基本的に殺すようにしている。この時この歌を思い出し何だか自分がとても悪いことをしているような気分になる時がある。

♪ミミズだって オケラだって アメンボだって みんなみんな生きているんだ 友達なんだ♪

いや、農の現場はもっとリアルでシリアスなんだ、歌のようにはいかないんだよ。

身近にある生き物の生き死に

クモを補食する子供のカマキリ 2014年7月21日撮影
クモを補食する子供のカマキリ 2014年7月21日撮影

クモを補食する子供のカマキリ 2014年7月21日撮影

農の現場では、日常的に生き物の生き死にが身近にある。とりわけ山ふもとの自然豊かな里山には多くの生き物が生息し、自然栽培や自然農法の田畑にはより多くの生き物が暮らしているから、なおさら生き物の生き死に触れる機会が多いと言える。私にとって生き物の生き死には日常であり生活の一部であり、ごく当たり前の風景なのである。

幼い頃から自然が好きで生き物が好きで、自然に癒やされ、生き物に癒やされ、魚影に心躍り、鳥の声に一瞬我を忘れる日常がある。一方で自然や生き物に強い恐怖を感じる時もある。

自然栽培や自然農法では、生き物を尊重し大切にし育む努力をするが、一方で殺生もする。

稲は春に種もみから生まれ、秋に籾になって死んでいく。色々な虫が生まれ、日常的に死んでいく。走り去る動物を見る一方で動物の死骸にも数多く出会う。

山のふもとにある里山の農の現場は、常に生き常に死ぬもので溢れている、それが自然の姿であり、自然の営みである。

獣害について~野生動物による農作物への被害~

(再掲)田植え後まもない稲の葉を食む雌鹿 2016年6月23日夕暮れ時、当農園にて撮影
(再掲)田植え後まもない稲の葉を食む雌鹿 2016年6月23日夕暮れ時、当農園にて撮影

(再掲)田植え後まもない稲の葉を食む雌鹿 2016年6月23日夕暮れ時、当農園にて撮影

最後に獣害について少し触れたいと思う。

被害状況の概要

令和3年度の野生鳥獣による全国の農作物被害は約155億円(対前年度約▲5.9億円)、被害面積は約3万3千haで(同▲1万ha)、被害量は約46万2千t(同+2千t)です。

農林水産省HPより抜粋

これは各地域の農業共済の被害額などに基づいて計算されているが、表面化してこない(行政が把握しきれない)被害は相当量あるとみるのが妥当である。

しかし、この数字を見ても”獣害の深刻さ”についてはピンとこないと思われるので、当農園の具体例をいくつか紹介したい。

ちなみに当地域で問題になる野生動物は、イノシシとシカを筆頭に、アライグマ、アナグマ、ハクビシン、イタチ、テン、ネズミ、モグラ、ヌートリア、カラス、ヒヨドリなどが挙げられる。

ここでは一番被害が大きいイノシシと鹿に絞って話しを進めていきたい。

イノシシとシカによる農作物への被害

イノシシは田んぼの中に入って稲を踏み倒す。歩いて走って転げ回って体をこすりつけて稲を無茶苦茶にしてしまう。稲穂をあちこちでグチャグチャに噛む。イノシシが本格的に入った田んぼはお米が全く獲れない。今年(2023年)もあちこちの田んぼで被害にあった。すべて合わせると相当な被害を被った。

またある年は自家用のジャガイモ1年分(相当量)を二晩で全滅させられた。毎年取り続けていた種芋さえ残らなかった。

またシカは稲穂をきれいに食べ尽くす。野菜も食べ尽くす。以前、他の田んぼの稲刈りに追われている僅か数日の間にシカによって田んぼ二枚をすっかり食べ尽くされたことがあった。シカによる食害は何度も経験している。

このようにイノシシやシカが田畑に頻繁に出没するようになったため、とうとう数年前に地元農家の皆で協力して広範囲に渡り電気柵を張り巡らせた。それでも獣害を完全に食い止めることができずに、今年のように大きな被害に遭うことがある。

さっと書いてしまえば、こんな感じだが、実際に野生動物に作物を食い荒らされた時の心境は筆舌に尽くしがたいものがある。

稲にせよ、ジャガイモにせよ、収穫までにどれほどの手間がかかっていることか、それを後もう少しで収穫という時にやられてしまうのだ。

”この田んぼは稲がよく育った、収穫が楽しみだな”

心を込めて手間暇を掛けて、やっと育った稲が収穫を間近にしてイノシシや鹿にこっぴどくやられてしまう。

サラリーマンに例えるならば・・・
ハラダ君:「夏のボーナスまであともう少し。今年はよく頑張ったから社長も随分増額してくれるようだ。楽しみだな。ボーナスが出れば、ずっと欲しかったあの憧れの釣り竿を買おう。」
社長:「ハラダ君、実は大変申し訳ないのだが、昨晩我が社にイノシシが数頭侵入して、君のために取っておいた夏のボーナス分を全額食べてしまったようなんだ。うちの警備が甘かったようだ。つまり君の”夏のボーナスはなし”ということになってしまった。大変申し訳ない。それにしても我々の力ではこれ以上自然の驚異に立ち向かうことは不可能なのかもしれない。それに自然相手のことだから誰を責める訳にも行かないんだ。ここはどうか堪え忍んで欲しい。」

被害に遭った時の私の心境はこのサラリーマンが感じたであろう心境に近いと思う(※実際ボーナス分くらいの被害が出る時がある。ただ上のやりとりでは”農作物への思い入れ”のところが表現できていないが・・・)。それにしても何たる無念、憤り、悔しさ。自然が相手だから気持ちの持っていき場がない。ただ受け入れるしかないのだ。
(※ちなみに私の場合、例え共済保険が下りたとしても大変手間がかかる無農薬栽培の自然栽培米や自然農法米としては扱われずに一般慣行米の卸価格が適用されるので獣害に遭うと相当な被害額になる。)

疲弊する自然 ~個人的所感~

夜に行動する野生動物 2015年6月2日撮影
夜に行動する野生動物 2015年6月2日撮影

夜に行動する野生動物(上写真は3頭の雌鹿)2015年6月2日撮影

今後、野生動物による農作物被害が深刻な地域は、若い農業の担い手が育っていかない可能性がある。野生動物の里への度重なる出現は田舎を根底から疲弊させる。それは人間が生きていく上での根源を脅かすものとして迫りくるものであると言っても決して過言でなはい。言い換えれば、現在、人(近代文明)は自然との良好な関係を全く築けていないと言える。

農の担い手の高齢化は進んでいる。それは田舎ほど顕著である。このままでは中山間地の農業は近い将来、完全に廃れてしまう。それは田舎が田舎でなくなる時であり、日本の自然が大きく根底から損なわれることを意味するのではないだろうか。

人里へ出現する野生動物が増えた原因については諸説あるが、私は、現在の日本の山が野生動物達にとって昔ほど魅力的ではなくなってきているのが最大の原因ではないだろうかと思っている。今や山は、もう昔の山ではなく、疲弊してしまっているのではないか、つまり動物達に豊かな実りを提供するだけの力を山はすっかりなくしてしまってしまい、ゆえに野生動物は生きるために食べ物を求めて仕方なく人里に出てくるのではないか、と。今や自然は一昔前の豊かな自然ではない、そう強く感じている。

とどのつまり人間の経済活動が自然に悪影響を与えた結果が最も見えやすい形で山のふもとの人里に表われているのである。それは前述したように日本の自然の存続を根底から揺るがすものである。山ふもとに位置する里山は、ある意味、文明の最前線であると思っている。

おわりに 自然と折り合うために

ここまで色々と人(百姓)と自然(生き物)のリアルでシリアスな関係性を中心に述べてきたが、目標とするところは、自然と折り合いをつけることである。

山のふもとで農薬も化学肥料も除草剤も一切使わずに自然農法・自然栽培を営んでいると自然は本来のありのままの姿を見せる。

そこで作物を育てることは、多種多様な生き物と付き合い、雑草と付き合い、天気と付き合うこと

いかに関われば自然と良好な関係が築けるのか、日々自然を観察し、手入れを行い、関わり続ける。

そうした人と自然の関係性の中で、同じ自然の一部として私の身体(働き)が、山ふもとの専業農家として、一定規模の自然と何とか折り合いをつけて、少しでも良好と思えるような関係を築けていると実感できた時(この瞬間)、得も言われぬ充足感で満たされる。少なくとも私にとっては自然に関わり自然と折り合いをつけることができるのは喜びなのである。それはまた自然の前にいつも多くの敗北感あるいは無力感を味わっているがゆえの喜びなのである。そう、自然はいつだってままならないものなのである。