自然栽培米と自然農法米の違いについて

自然栽培米と自然農法米はどこが違う?

京都丹波の里はらだ自然農園
京都丹波の里はらだ自然農園

「自然栽培米と自然農法米の違いは何ですか?」

当農園では“自然栽培米”と“自然農法米”を販売しているので、お米のご購入を検討されているお客さんから、自然栽培米と自然農法米の違いに関するご質問をよく受ける。

当農園では以下のようにお答えしている。

「自然栽培米も自然農法米も、農薬・化学肥料・除草剤は一切使用していません。」

自然栽培米は田んぼに一切何も施用しない完全無肥料栽培です。自然農法米では田んぼに米ぬかを施用しています。」

「つまり、自然栽培米と自然農法米の唯一の違いは、米ぬかを施用しているか、施用していないか、です。」

自然栽培米も、自然農法米も、無農薬・無化学肥料・無除草剤である。
自然栽培は有機質肥料(米ぬか等)の他、一切何も施用しない完全無肥料栽培である。
自然農法では米ぬか(※)を施用している。
※自然農法の米ぬかについて~栽培者のこだわりポイント~
●自然農法にける米ぬかは田んぼに生息する微生物を始めとした多種多様な生き物の食べ物(エサ)として明確に位置付けて(イメージして)施用している。
●米ぬかの量は田んぼの生き物にとって決して過剰(食べ過ぎ)にならない範囲(八分目)に抑える。米ぬかは稲の肥料ではない、生き物のエサである。
●米ぬかが生き物の活性を高め、その生き物の生息活動が稲の生育につながり、最終的に美味しいお米が育つ~栽培者として明確にイメージしながら田んぼに米ぬかを施用している。

原点は自然農法

私は自然農法の一環として自然栽培を実践している。

私の中では自然農法は広義、自然栽培は狭義である。

つまり、自然農法が大きくあって、その中の一部に自然栽培がある。

自然農法は、昭和の初め頃、二人の創始者によって相次いで提唱された。岡田茂吉氏(1882~1955)と福岡正信氏(1913~2008)である。

自然栽培を提唱した「奇跡のりんご」の木村秋則氏が影響を受けたのが福岡正信氏の自然農法である。自然栽培にはその源流として自然農法がある。

ちなみに、福岡正信氏の自然農法は“一切の人智・人為を無用”とした。つまり人の手を不用とする何もしない農法である。

「田も耕さず 肥料もやらず 農薬も使わず 草もとらず」
(福岡正信著「自然農法 わら一本の革命」春秋社1983より)

一方、岡田茂吉氏は自然農法について次のような理念と原理を説いた。

昭和10年(1935)、創始者の岡田茂吉(1882-1955)は農薬や化学肥料に依存しない自然農法について、つぎのような理念と原理を示しました。
【自然農法の理念】大自然を尊重し、その摂理を規範に順応する
【自然農法の原理】生きている土の偉大な能力を発揮させる
公益財団法人自然農法国際研究開発センター(略称:自然農法センター)HPより抜粋

また岡田茂吉氏は自然農法について次ぎのように述べ、人(栽培者)による自然の摂理に則った関わり方を肯定している。

自然農法は江戸時代からの伝統農業や現在行われている慣行化学農法のように肥料によって作物を栽培するという農法ではなく、自然農法は生き生きしている土の偉大な能力を発揮させて作物を栽培するのであって、単に野生化するのではなく、人間の慧知や愛情を加えることによって、いかに生き生きしている土に育て、その能力を発揮させるかという、新しい農法を説かれました。

自然農法センター在職当初の研修資料(1995年発行)より引用抜粋

また岡田茂吉氏は当初、自然農法のことを、無肥料栽培、自然栽培とも呼んでいた。

創始者が自然農法を初めて提唱されたのは昭和10年であり、当初は「無肥料栽培」といわれていました。
上記同資料より引用抜粋

このように自然農法は、岡田茂吉氏にせよ、福岡正信氏にせよ、無農薬・無化学肥料・無除草剤に加え、完全無肥料の栽培であった。

現在全国各地で実践されている“自然栽培”は、一切の人智・人為を否定した福岡正信氏の自然農法よりは、岡田茂吉氏が説いた自然農法に、栽培の考え方や捉え方、そして方法(技術)は近いように思われる。

個人的自然農法観

私(京都丹波の里はらだ自然農園代表:原田健一)は、公益財団法人自然農法国際研究開発センターに研究員または技術普及員として在籍していたが(1997~2007)、そこでは自然農法として有機質の使用は認められた。そこで学んだ最も大切なことは上記の自然農法の理念と原理である(再掲)。

【自然農法の理念】大自然を尊重し、その摂理を規範に順応する
【自然農法の原理】生きている土の偉大な能力を発揮させる

私の自然農法観については他でも記載しているが「自然栽培米について」のページで述べた内容を一部改変して引用抜粋したい。

その日々の中で感じたことは、自分(技術)を田んぼに押しつけるのではなくて、自然(田んぼ)に合わせるしかないということである。

そして独立し自然農法農家になってしみじみ感じたことは、自然(田んぼ)を前にしたら、”自分はない”ということだった。

つまり自然農法農家という日々の経験の中で、自然(田んぼ)の前では、自分は”何者でもないのだ”と。自然の摂理に従っているだけだ、ただ自然に仕えているだけなのだと。

自然の中で打ち立てようとする”我”の、なんて脆く弱く頼りないことか、自然にとっては人の我なんてどこ吹く風、自然の摂理は、その摂理に則って、ただたんたんと進んでいく、無情でもなく、不条理でもなく、ただすべてをつかさどる大自然があるのみである、私はただ一人の百姓としてその大自然の中のただ一部としてそこにいるだけなのだ。

“何者でもない”、これは極論であり、あくまで私の個人見解的な百姓観である。

先に”自分(技術)を田んぼに押しつけるのではなくて、自然(田んぼ)に合わせるしかない”と述べたが、その中で、例えば、無肥料になったなら無肥料だし、場合によってはその土地に合った有機物の施用もあっていいと思っている。

優れた技術は数多くあるが、どんな素晴らしい技術であっても、すべてにおいて必ずしも優れているわけではない。

自然(田んぼ)の声に耳をすませ、自然(田んぼ)に合わせた結果、自ずからそうなるのがいい、でも、色々なかね合いの中でまた違う方法になったならそれはそれで素晴らしい農法(栽培)だと思っている。

当HP内「自然栽培米について」より一部改変して引用抜粋

現在、京都丹波の里はらだ自然農園では、自然農法として、無農薬・無化学肥料・無除草剤はもちろんであるが、完全無肥料の自然栽培をさらに突き詰めていこうと考えている。
大切なことは上で述べたようなことであると考えているが、本当に大切なことは、もちろん技術は一定レベル以上は当然必要であるが、栽培も先へ進み、突き詰めていくと、結局は見えない部分のところに辿り着く、と思っている。


自然農法・自然栽培の関連記事→  風邪と自然農法 自然と人~私の自然観~ 自然栽培米について  自然農法とは