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コロナ考
コロナも5月に季節性インフルエンザと同じ「5類」に引き下げられるという。私としてはようやくの感がある、デンジャラスな長いトンネルを抜けきったという安堵がある。
色々な意味でコロナとは一体何か?
物事の捉え方は人それぞれである、だから大げさに言えば、世界の姿はたったひとつではなく、人の数だけの違った世界の姿があると思っている、同じものを見ても、その見え方は皆それぞれ違う、人として、そういう側面もあるのではないか、ぐらいに思っている。
コロナしかり。いやコロナに関しては、そうとも言えないところもあるか。(どっちやねん!!)
色々な人と話してみると、コロナに関してはマスコミでアナウンスされている通りの見方を持っている人が圧倒的に多い。当然と言えば当然である。しかしネットでは様々な情報が流され、マスコミよりもネットの情報を信じている人が一定数いることも事実である。
世に出回る情報について、お前はどう思う?と問われれば、コロナに限らず、膨大かつ玉石混淆の情報に関して、ネットやマスコミも含めて、極論すれば、私は何も支持しないし、何も信じない。言い換えれば、信じるでもない、否定するでもない、真ん中に立つ中立的立場である。
自分にとって情報とは何か?
世界を知りたい、そう願う。私は好奇心が強く、影響を受けやすく、論理の道筋が通っていれば信じやすいほうだ。しかし情報の坩堝(るつぼ)の中にいたら何を信じたらいいのか何が何だか分からなくなった。
コロナが流行り出した頃、トイレットペーパーが店頭から消えた、いわゆるトイレットペーパー騒動である。我が家もご多分に漏れずトイレットペーパーが底をつくところまできて大変な思いをした。<この時の模様は「我が家のトイレットペーパー騒動記」としてブログに書いた>
私はトイレットペーパーが不足しているなんてドラッグストアに行くまで全く知らなかった。だからトイレットペーパー騒動を機に大いに反省し、それ以後は必要な新しい情報を取り入れるべく、少なくとも新聞は毎日読むことにした。しかし“喉元過ぎれば熱さを忘れる”でいつのまにかあまり新聞を読まなくなり、情報を求めてネットで検索することもすっかり無くなった。そもそもテレビはほとんど見ないし・・・というわけで“情報難民状態”に陥いる可能性がある。
情報化社会における情報はこの世を生き抜くための貴重なツールである、新しい技術、新しい考え方、新しい社会的活動、社会人として新しい動きを把握していく必要もある。
分かっているが、時代に遅れていてもいい、これでいい、自分にとって本当に必要な情報は必要な時に必ず届くという信念のもと、情報という概念自体、もうどうでもいいと思うようになった。
良い悪いは別として、情報をうっちゃることは爽快である、どこ吹く風。その結果、トイレットペーパー騒動で困るようなことになるが・・・爽快感はある。
もちろん私は世界を知ることを諦めたわけではない、世界がどこから来て、今世界はどうなっていて、これからどこに向かおうとしているのか、興味は尽きないし、例えある種の情報を遠ざけたとしても世界の雰囲気や息づかいは常に感じていたい。
情報とどう付き合うか?とりあえず、今の私は、情報に対して随分と距離を取っている。
古典指向
今、私の心が求めるものは、新しいものではなく、古い時代のもの、
そう、「古典志向」
時間があれば、古い時代に書かれたものを読む。新しい動きや物事はあまり気にならない。
すべてが古典ではないが、好きな作家は、ドストエフスキー、夏目漱石、あとシェイクスピア、ゲーテ、武者小路実篤など。
もっと若い頃から古典的なものに親しんでおけば良かったと後悔している。
“少年老い易く学成り難し”である。
温故知新(ふるきをたずねてあたらしきをしる)とは言うが、高度に発達した現代社会にあって古典が持つ意味は何だろうか?
ちょっと音楽
音楽はジャンルを問わず幅広く聴くが、現代のものよりは古い時代のものを好む、ブルース、クラシック、昔のロック、そしてボブディラン(今も現役バリバリのひとだが、恐るべし)
ちなみに今私の中で流行っているのは、ジミヘン、バディ・ガイ、ジェフ・ベック。私もあんな風に、心のすべてを愛のすべてを情熱のすべてをギターに込めて弾いてみたいよ。
古くはないが、先日、真島昌利(ブルーハーツのギタリスト)の「アンダルシアに憧れて」を久し振りに聴いて、その歌詞にうなった。ちょっと紹介したい。(ご存知の方も多いかもしれないが・・・)
歌の主人公はアウトサイダーで、地下の酒場のカルメンと落ち合う直前にボスに電話で呼び止められて、夜の波止場で対立組織との決着に挑むが、マシンガンにボルサリーノもろとも吹き飛ばされて死んでしまうという歌。
歌詞のクライマックス部分を引用させて頂く。
最後はあまりに詩的で情景的である。
激しい痛みが体を
電光石火につらぬき
はみだし者の赤い血が
カラッポの世界を染めるうすれていく意識のなか
オレはカルメンと踊った
アンダルシアの青い空
グラナダの詩が聞こえた
若きウェルテルの悩み
古典に話しを戻すが、この歌で思い出したのが、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」。私の中では、文学(芸術)上最高の頂点を極めた場面がある。その瞬間、ありとあらゆるすべてが凝集し、絶頂に達する。
この悲しさ、切なさ、男女の愛、情熱、あまりに筆舌に尽くし難い。
(これから読む方もおられると思うので、これ以上は述べない。)
古典の中で人は悩む、人生に悩み、人に悩み、恋に悩み、お金に悩み、境遇に悩み、いつの時代であっても人は変わらない、外国も日本も同じ、時代は違っても同じ。
文学だからこそなのかもしれないが、そこでは万全な人なんかほとんどいない、完璧な人生なんかない、いつでも何かが欠落し偏っている、悲喜こもごも、喜怒哀楽、波瀾万丈。
人は切なくて悲しい、まるで完璧ではない。
人生ははかなく切ないのか、短いのか、
いやとてもとても長いのか、すべては一瞬なのか、いやむしろ永遠なのか、
その瞬きするほどの一瞬のきらめきが時を超え人生そのものを貫徹し明るく照らし出すことがあるのだろうか?
そしてすべては報われるのか?
人生は摩訶不思議なものか、人の心の動きは無限であらゆる可能性を秘めているのか、
人生は現実か、錯覚か、幻想か、ギャグか、それとも夢なのか。(私はギャグというところが案外気に入っているが<ちょっと不謹慎かな?>、いずれにせよ人生は夢か幻想ぐらいに思っているのかもしれない。)
人とはいったい何なのか?
ちなみに又吉直樹は小説<人間>で「僕達は人間をやるのが下手だ。」と述べた。登場人物がいつまでも印象に残る、興味深く面白い小説だった。
新しい時代へ~時代は変わる~
“トイレットペーパー騒動”は大変だったし、ある意味、恐かった、とても懲りたから情報に敏感になろうと決心した、しかし、私にはなかなか難しいようだ。
心が言う、もういい、心の向くまま生きようぜ、情報を捨てようぜ、感性の赴くままに生きようぜ、と。
極論するなら、私は現代における高度情報化社会では、情報を拾い集め情報に振り回される時間があるなら、到底すべては読むことができないであろう古典的なものを少しでも味わうことができるよう進んで古典的なもののために時間を割きたいと思っている。
そうして、心が動かされ悩めるうちに、現在も過去も未来も、さらに色々なものが修正され、修復され、融合され、全く新しいものが生まれてくる、そう願う。なにしろ時代は変わりつつある。
最後にボブディランの「時代は変わる」の歌詞(訳:片桐ユズル)を部分的に引用抜粋して、本文を終わりにしたい。
そしてせっかちにきめつけないことだ
ルーレットはまだまわっているのだし
わかるはずもないだろう
むすこや むすめたちは
あんたの手にはおえないんだ
むかしのやりかたは
急速にきえつつある
あたらしいものをじゃましないでほしい
たすけることができなくてもいい
おそい者が
つぎには早くなる
いまが
過去になるように
秩序は
急速にうすれつつある
いまの第一位は
あとでびりっかすになる
とにかく時代はかわりつつある
最後まで読んで頂き感謝致します。