3月11日はやっぱり特別な日、決して忘れることの出来ない日。
新聞を広げて東日本大震災の関連記事を読む。
先日、情報うんぬんについて述べたが<随筆雑文~情報化社会を生きる~>、こうして震災関連の記事を読むと、情報や報道は、状況によって善し悪しがあっても、やっぱり必要なものだとつくづく思う。そう思ったことのひとつは、歳月はその時の印象を少しずつ忘れさせるからだ。
当方も2018年の台風21号で被災し廃業の危機に陥ったが、今朝、当時のブログ<台風>を久しぶりに読み返した時、既に被災時の印象が薄らいできていることをしみじみと実感し驚いた。人は忘れやすい、と思う。
当時の感覚を取り戻しながら東日本大震災関連の記事をひとつひとつ、とても複雑な思いで読んだ。一言では表せないほどの多様な思いが胸中をかけめぐる。
地震があった日、その衝撃、それからの揺れ動いた日々、そしていつのまにか12年が過ぎた。
誰もが、人それぞれに、それぞれの現実と向き合い、その思いと向き合った。
ひとつひとつの記事を、被災したその人自身になってみたり、自分と照らし合わせてみたり、感情を大きく揺れ動かしながら、読んでいく。そして3月11日に限らず同じようにやはり人には人それぞれに思いのある特別な日があると思った。言葉にならない色々な思いがひとつの愛の涙となって結晶する。
はかなくも星となったかけがえのない命に愛を込めて祈りを捧げたい。

目に見えるものが大きく支配する今の世の中で、誰かが言ったように本当に大切なものは時に目に見えないのかもしれない。
時に人は、人としてうまく歩けない日々のほうが多いのかもしれない。しかし、ふとした日常の瞬間に人のよさが垣間見える。
それは真心とか愛とか優しさとか好きとか祈りとか、その温かみを感じ取った時、人全体から、心全体から、その奥底から、おのずから、なんか涙になって溢れ出してくるようなもの、そんな相互の関係。
ただ、涙になって結ばれるような人と人の関係、そして私達人間にとってはなくてはならない自然との関係、記事と向き合う中でそんな関係のこともつくづく考えた。
経済効率が最優先される世の中で破壊され失わされ続ける自然。
その自然の姿と人の姿が重なる。
人と自然には一蓮托生の側面がある(自然のほうが遥かに強いが)、と思う。
そもそも人とは何か、自然とは何か。
でも自然にも人にも、本来の本当の良さがあり、その良さは決して失われていない。
人と自然がお互いかけがえのないものとして良き相互関係を築き、双方ともに本来の良さが十分に発揮できるように世界が進んでいくことを祈る。
そしてとても微力ながらも、そんな思いで少しずつでも歩んでいきたい。